「嫌い」ということについて
あるネットの記事で、「嫌い」に係る8つの事例(プロセス)があった。
(1)相手が自分の期待に応えてくれない
そういうことはあるね。あんまり人に期待しない方だから、だからと言って嫌いにはならない。
(2)相手が現在あるいは将来自分に危害(損失)を加える恐れがある
会社かなんかで先輩や上司から苛められることは多いね。団塊の世代は特に酷かった。今は組織人じゃないので、そういう環境はなし。幸いなり。
(3)相手に対する嫉妬
自分から嫉妬することは基本的にないが、されることはあると思う。意外にね。される方は気づかないのだ。優れた人から学ぶ習慣があるので、相手に対して嫉妬はしない。庶民的なんですね。品がないことはしないと母上から教わった。
(4)相手に対する軽蔑
口や態度には出さないが、品のない人に対して軽蔑する気持ちはある。それでも、される人には分かるんでしょうね。分からない人も結構いるね。身分なんかで軽蔑することはない。
(5)相手が「自分を軽蔑している」という感じがする
それはある。無視するけどね。いちいち気にはしない。会う機会を減らす。傲慢な人はたくさんいる。
(6)相手が自分を「嫌っている」という感じがする
そういうことは、かなり有ると思う。すぐ分かる。日本人に多いし、オランダ人とかオーストラリア人などの白人も然り。人は言動で嘘がつけない動物なのだ。
(7)相手に対する絶対的無関心
仕事的には、「好き嫌い」では商売にならないのでそういう感情はないし、人の観察が趣味なので、どんな人にも絶対的無関心ではいられないのが性分だ。
(8)相手に対する生理的・観念的な拒絶反応
難しいね。そういう激しい感情はあんまりない。そういう態度を示す人はいるね。まあいいや、とほっておく。唯我独尊である。
「ほとんどのケースは(1)が基盤となり、(3)ないし(4)へと移行していき、最終的には(8)へと発展していって「嫌い」は完成されるという。」という説明があった。
そうですかね。あんまり感じることはない。コンサルって、感情的になって仕事できないし、カウンセラーやコーチ的な職業だから、「好き嫌い」と言わないんですよね。子供のころから、あんまり主導的に生きてこなかったし、好き嫌いを前面に出すことがあんまりなかったから、今になってもそういう感情はないんですね。もちろん、馬鹿にされたら徹底的に応戦し、相手がギャフンとなるまで戦うんですけどね。それは感情じゃなくて、ある意味正義感かな。それで嫌われることは多々あると思う。
人間観察ほど面白いものはないのだ。他人の本質を洞察するのに、好きや嫌いを感じてはいけない。
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