2022年11月22日火曜日

2941:ブログアクセスへの妨害??

昨日くらいからか、ブログの一つが開けなくなった。なんででしょうね。ほかのブログはオーケーなんだけど。なんでもフィッシングされるということでブロックされていた。そこでブロックされている内容をコピー相手2940として再投稿しました。 何か誰かさんに不快にさせたんでしょうか。久野さんは僕の一番に尊敬する人。ご遺族とかに不快感あたえるような内容じゃないけれど。まあガールフレンドから聞いたことなんかを書いたけど、久野さんが退職後フランス語を学んでいた時の同級生。それでガールフレンドと表現したんだけれど、それがいけなかったか。 まあ2940がまたブロックされたら、内容を点検しませう。

2940:久野一郎さんの思い出(再投稿)

最近はFaceBookで書いていることが多いので、久野さんとの思い出をそこから転記する。

日本工営の久野さんが亡くなられた。90歳。入退院を繰り返されていることは彼のガールフレンドから聞いてました。
工営23年間で、最もお世話になった方です。合掌。
久野さんとは、1980年会社説明会の面接で初めて会いました。設計部長の元気いっぱいのころ。TOEFLの結果を知って「うちにはこれ以上の英語力を持っているのはいねえんだよ。」江戸弁。隣にいた高橋さんも江戸っ子。いい時代だねえ。
結局、PCIを蹴って(八十島先生の推薦だから、本当は失礼なんですが、八十島さんはよかったねえと。この方も大物)、工営に入ることになったんだけど、実は推薦も何にもないので試験受けた。10人以上いたかな。大方は試験なしの学校推薦組。
午後結果を見たら、僕だけ不合格。そりゃそうだ。交通工学専攻だしね。水屋じゃない。言い訳。
次の日の朝がた、人事部の徳舛さんから遠慮がちな電話。「不合格でしたが、最終面接に来てくれませんか?」と。
その当時は、海外コンが人事権を持っていて、人事の判断をひっくり返すことができたんですね。久野さんの引きがあったと思う。その面接でも、国内海外どっちが行きたいかという質問があって、国内、海外◯と回答した。徳舛さん曰く、両方◯の方がいいですよとアドバイス。無視してそのまま。
面談で、今井さん(のちに社長、海外から国内に飛ばされたころだね)が君はPCIと工営どっちにいきたいんだね、と。僕の答えは、「入ってみなければいい会社なんてわかりません」と即答。
結局、海外コンの技術開発部に所属した。これにも久野さんのお働きがあって、3月までかみそり佐藤と呼ばれた久野さんのライバルがいて、技術開発部長でした。4月から比国マニラに移籍。それで、設計部から技術開発部に急きょ変更。
あの時、技術開発部に入らなければ、今頃ダム屋で終わっていたかもね。久野さんの好意に感謝だね。
25年ほど前に久野さんが役員定年され、久野さんの私物を片付けることがあったけど、僕の立場も低く(最後まで末席でした)、久野さんに感謝の気持ちを伝えることができなかった。それ以降、久野さんのガールフレンドと知り合い、時々近況を伺っていたが、結局お会いすることもなかった。いろいろ聞きたいこともあったねえ。本当に、土木の方は過去を話さないねえ。本も書かないし。
今日は久野さんを偲んで、飲むこととします。

久野さんとの思い出
久野さんの部下として最初にJICA案件で団員になったのは、トルコ・エルメネック水力発電のFS。
その前段で、南東アナトリア地域計画MPを世銀から受注し、その勢いで当時電発の牙城だったトルコに進出した2件目でした。勢いがあったねえ。
久野さん団長、RECS社長の橋本さんが環境影響評価、僕は最下位の水文担当。
思い出1:アンカラの飲食街でよくご一緒したが、彼曰く「ビンドクズ、セキサン、セキズってよく聞くけどなんという意味?」。1988年をトルコ語でそう言うんですよ、と回答。あれから32年たっても、それだけは覚えている。
思い出2:彼がしている時計がディズニーのミッキーマウスの絵があるもの。彼のお嬢さんがJALのCAで、お土産だと嬉しそうに見せてくれたね。お茶目。それにちなんでいるわけじゃないけど、今の僕の時計はシチズン製で東京ディズニーランドのお土産。内の奥さんは、ペアじゃないけど、ミニーの絵があるもの。久野さんのよりはちょっとお高い。
思い出3:彼が手解きしてくれた技術は一つ。残差マスカーブの書き方。それだけ。その後、最適手法(動的計画法など)を一切使わずに貯水池運用を最適化する手法へと発展した。これを知ったある東北電力の方が絶対にできるわけがないと豪語したとかしないとか。新入社員で入った瞬間、久野さんが当時進行中の馬国水資源MPの補助員として僕を参加させた。すぐに団員の報告書のチェックと直し、追加文章作成を開始。新入社員ね。
後はまたいつか。

久野さんのこと(その他雑談)
JICA案件で全国レベルの水資源MPはマレーシアが最初だと思う。それまでは、FSとかじゃないかな。工営は韓国での業務をやっていた時代があった。漢口の奇跡だっけ。FAOが実施した水資源MPがあって、久野さんは水文担当だと思う。当時、工営には過去の膨大な報告書があり、技術開発部時代は研究開発中心だったのでそれら膨大な報告書を読み漁っていた。その中にFAOの報告書もあり、久野さんらの専門家の名前もあった。多分、そこで身に着けた技術をJICA馬国MPで開花させたのだろう。その技術はヨーロッパからアメリカに伝わった技術で、一方ソ連にも伝わっていた。日本ではまだ未知のもの。だから工営としては無意識に日本ではない欧米の技術を取り入れたのだった。意識はしていないと思う。文献調査で知ったことだ。
久野さんはFAOから学んだ技術を工営内の若手に伝えたことになる。話はズレるが、60年代にチェコからカナダに亡命したヴィット・クレメシュ博士もその流れにいたが、彼の弟子として僕は今に至っている。久野さんとクレメシュ博士が繋がってるね。
JICA以前の組織は、OTCA。海外技術協力なんたらという組織。その頃はMPの団長は学者さんで、その下にコンサル各社から選ばれた専門家がいた。エジプトの開発計画MPの団長さんだった八十島義ノ助先生は僕のお師匠さんだが、コンサル行くんだったら、工営かPCIと言い切っていた。正解だね。
久野さんも僕の指導教授が八十島さんと聞いてびっくりしていたね。それも入社に大きく影響しているね。そういう時代でした。
久野さんだけだけじゃないけど、昭和一桁の人は寡黙だね。お嬢さんのことは褒めるけど、男の子のことは一切言わない。山口さんもそうだったし、ほとんどね。僕もそうか。
終戦時にもうちょっと歳が上だと結構話好きが多い幹部がいたような気がする。海軍予科兵学校とか陸軍予科士官学校の出身者も工営の幹部にいて、ラオスの世銀融資の水力ダム工事監理の所長が確か海軍で、本社の幹部が陸軍だったか。当時世銀とうまくいっていなかった所長に、「貴様はそれでも海軍軍人か?」と叱咤激励したと聞いている。嘘か真か。久野さんは昭和一桁だから旧制じゃないし、怒ることってあんまり経験ない。兎に角、寡黙。もっと下の高柳さんとは喧嘩したとも聞いているけどね。高柳さんとはもう18年交流が続いている。
話がズレまくりだ。兎に角、僕の人生のお師匠さんたちが次々と亡くなるのは寂しい限りだね。僕のことを思い出す後輩はいないでしょうね。残念。人徳ないしね。

以前建設コンサルタント会社の国内海外の差異を書いたが、久野さん全盛のころ(80年代)は、それまで主流であった設計・工事監理部門からいよいよ調査計画部門に主流が変わっていた。実際、設計・工事監理部門の方が受注額も高いし会社的には貢献していたのだが。
だけど、調査計画の方がかっこいいし、設計工事監理はダサいイメージが幹部にあった。
それがバブル崩壊のころからちょっと変化し始めた。ODAが減り始めて調査計画案件が徐々にだが減ってきた。今なんかMPやFSすらないからね。技術指導の技プロだけ。
そんなわけで、今まで辛抱していた設計工事監理屋さんが台頭してきた。そのころの部課長がだんだん設計工事監理屋さんになり、僕など調査計画屋を軽視し始めた。しょうがないね。
また、国内コンも台頭してきて、調査計画屋は肩身の狭い思いをするようになってきた。
そんなこんなで、僕もイランに飛ばされた。現地で雇用しているイギリス人が、君本社でなんかやらかしたの?と聞く。なんでと聞くと、彼曰く、だってさここに飛ばされた人の多くはあんまり厳しい現場なんで皆さん会社を辞めたよ。なるほど、ここは辞めてほしい人材の最果ての地なんだ。自己都合で辞めてくれれば退職金も少なくて済む。賢い判断。
僕は会社以上に図々しいので自己都合では辞めなかった。会社都合での退職。会社もこの制度をすぐ止めたね。当然だよね、優秀な人材がどんどん辞めて、お金もかかる。
会社の判断って面白いね。もう海外コン自体が国内コンに吸収されるねえ。。。