2013年12月31日火曜日

2000:2013年12月31日

いよいよ2000号に達した。大したことじゃないけど。

2008年11月からおよそ5年。早いものだね。丁度、3回目の転職の機会を窺っていたころだ。

途中、いくつかのブログは消去した。内容がかなり辛辣すぎたからね。執念深さと嫌味な性格はなかなか消えないのが欠点だ。

2009年4月からは、タイタニック3号からタグボートに無事に乗り換え、順調に下船。今に至っている。今は小型高速艇に乗船中だね。小回りが利いて自由意志で方向が決められる。

この5年間でも多くの先輩たちが定年を向えて、もう65歳以上になっている。現役で活躍している方はほんの数人だ。多くはもう年金暮らしと聞いている。

大学や大学院の同期もずいぶん様変わり。一人癌で亡くなった。独身で唯一大学で教職についていた。僕が今年60歳だから、同期たちは現役としたら、58から59歳といったところだ。そろそろ定年前となる。中には取締役になっていたり、社長や大学総長にもなっているから、まだ引退は先だろうし、他の奴も65歳ぐらいまで定年延長という状況もあるね。タイタニック1号の同期入社組も32年勤続だが、まだ一人も取締役が出ていない。一人なるべき奴がいるが、技師長になっちゃったね。彼は相当優秀だが、それだけでは成れない事情が会社にはある。

さて、今日12月31日にアフリカ赴任中とは奇遇だが、これもいい経験だ。2年前のパラグアイ・アスンシオンの年末年始は、インターネットテレビで日本の番組ばかりを見ていた。丁度12時間の時差のため、紅白は前日午前に見てお昼時に日本時間午前0時だったね。老舗の内山田ホテルの次男さんがパソコン好きで良かったね。あそこも毎朝日本食が食べられるという通常ありえない環境だったし、イグアス移住地のホテルもそうだった。南米日系移民との最初の出会いでもあった。当地では、パ国出身の日系2世の方にも遭遇した。ポ語がネイティブ並みにできる日本人コンサルを初めて見た。

この5年では、

アフリカ:3か国(ガーナとここと隣国)
南米:1か国(パラグアイ)
中東:1か国(トルコ)
太平洋州:1か国(サモア)

の計6か国行ったことになるが、アジア方面にはとんとご無沙汰だ。来年は10月までアフリカだから、それ以降何とかアジアに行きたいものだが、これも縁がないとなかなか行けないのだ。この国のご縁が続く可能性もあるしね。そういう根回しも協議中だ。

先ほど、モールに行って、USBタイプの3Gの延長契約をした。あと400Mバイトしか残ってなく、5日間はちょっともたないと判断した。スカイプもしたいしね。ホテルのロービーに行くのも面倒だし。ホテルのWIFIも復帰する可能性もないわけではないが期待もできないということだ。

ここの水関連局も職員はほとんど出勤していない。そりゃそうだよね。各フロアー数人だね。僕もあと3時間でホテルに戻る。

年末年始、連ちゃんで仕事というのも一興ですね。好きな仕事ができるっていいねえ。神に感謝。

2001号は、元旦になるかな。







2013年12月30日月曜日

1999:アフリカも師走だ

12月30日。

いよいよ明日で2013年も終わりだ。一つの区切り。2003年夏の終わりに、最大手コンサル会社を離れ、旅立ち、それから10年と3か月。

早くもあり、長くもあり、苦もあり、楽もあり、といったところか。

二番目、三番目の会社は組織・人材としてはあんまりよろしくない会社だったね。修行場所としては最高で、それら2社に在籍したおかげで、第二の人生の羽ばたきに大きく貢献した。いまの会社は09年からだからもう4年半。順調そのものであったとは言えないが、プロのコンサルとしては、

「私、失敗しないので。」

と、ちょっとだけ言える自信はできた。連続失注で沈み込む人を何人も見ているからね。厳しい世界なのである。

さて、今日オフィスで聞くと、1月1日から5日まで連休とのこと。やったね。ホテルでの作業に集中できる。

今日は、大型モールと中華系スーパーで買い物をした。5日間の食材もいるからね。英国軍御用達のデイパックはいいねえ。

と、こういう時にホテルのWIFIが切れた。しばらく使わなかったUSBタイプの3Gを接続して書いている。

この調子だと2000号まで今年中にたどり着けそうだ。

2013年12月29日日曜日

1998:今後の仕事の有り方

今日知った本

Shift

著者は、リンダ・グラットン(Lynda Gratton)で、ロンドン・ビジネススクール教授だそうだ。早速、LinkedInでも彼女のグループに参加する。

下記に日本語版の紹介記事を転記。

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*下流民か、自由民か。地球規模で人生は二極分化する*

2025年、私たちはどんなふうに働いているだろうか?
ロンドン・ビジネススクールを中心とした、「働き方コンソーシアム」による、
世界規模の研究が生々しく描き出す2025年のに働く人の日常。
「漫然と迎える未来」には孤独で貧困な人生が待ち受け、
「主体的に築く未来」には自由で創造的な人生がある。
どちらの人生になるかは、〈ワーク・シフト〉できるか否かにかかっている。

働き方が変わる! 〈5つのトレンド〉
●テクノロジーの発展
●グローバル化
●人口構成の変化と長寿化
●個人、家族、社会の変化
●エネルギーと環境問題

働き方を変える! 〈3つのシフト〉
●ゼネラリスト→連続スペシャリスト
●孤独な競争→みんなでイノベーション
●金儲けと消費→価値ある経験

「食えるだけの仕事」から意味を感じる仕事へ、
忙しいだけの仕事から価値ある経験としての仕事へ、
勝つための仕事からともに生きるための仕事へ。
覚悟を持って選べば、未来は変えられる。

著者について

◆著者紹介
リンダ・グラットン(Lynda Gratton)
ロンドン・ビジネススクール教授。
経営組織論の世界的権威で、英タイムズ紙の選ぶ「世界のトップビジネス思想家15人」のひとり。
ファイナンシャルタイムズでは「今後10年で未来に最もインパクトを与えるビジネス理論家」と賞され、
英エコノミスト誌の「仕事の未来を予測する識者トップ200人」に名を連ねる。
組織におけるイノベーションを促進するスポッツムーブメントの創始者。
『HotSpots』『Glow』『Living Strategy』など7冊の著作は、計20ヶ国語以上に翻訳されている。
人事、組織活性化のエキスパートとして欧米、アジアのグローバル企業に対してアドバイスを行う。
現在、シンガポール政府のヒューマンキャピタルアドバイザリーボードメンバー。
 
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僕の場合も、50代から仕事のやり方をシフトした。もう10年に突入だ。これから11年で70歳。そこから何年仕事を続けられるかが勝負。連続スペシャリストという発想はもう実践中で、常に最先端をニーズに応じて目指している。ニーズがないとコンサルとしては商売にならないね。ニーズを作り出すという手もあるが結構難しい。

余談だが、今年アルジェリアで起こった人質拘束事件のドキュメンタリーをBBCが昨日今日やっている。フィリピン人が1人出たが、日本人に関しては全く取り上げていない。取り上げようとしたが、日揮側から拒否されたか、あるいは取り上げることを最初から考えていなかったかは不明だ。日本のマスコミよりかなり突っ込んだ内容になっている。BBCのすごさが分かるね。TBSなんか無力だね。こういう海外の事件は。

1997:29日午前8時

遅い朝飯を食べる。一人先客がいたね。お客は数人のようだ。

BBCでは、久々

Dani Sinha

が登場だ。インドとヨーロッパ系のハーフ。日曜にでてくる女性ね。インドヨーロッパ系は赤が似合うね。アジア系はなかなか難しい色だ。ナイトクラブのママさんじゃないので。

余談だが、BBCのキャスターにも「アヒル」口の女性が二人いる。インド系と英国系。骨格が似ているから、そのせいでアヒル口になるのでしょうかねえ。あんまり魅力的とは思わない。

アフリカで年を越すのは二度目かと思っていたが、どうも錯覚だったようだ。確かに2012年の正月はパラグアイのアスンシオンだったが、その前年と前前年は帰国中だったことがブログで分かった。だから今回がアフリカでの年末年始は最初だったのだ。

今日は朝から雨。しとしと、降っている。

また余談。BEAMSというアパレル店があるようで、その会社がIn The Cityという雑誌を出しているらしい。片岡義男さんがエッセイや短編を書いているようだね。アマゾンでも購入できるので、帰国前に頼んでおこう。久々彼の書いてるものも読みたくなった。BEAMSはどうも59歳の小生の好みではなさそうだが、大宮駅のルミネにもあるんだね。ファッションにはもうあんまり興味なしだが、好みは昔から変わらない。南部アフリカでもモールに行けば結構いい感じのアパレルが売っている。隣国とは大違いだし、この国の若者のファッションセンスはなかなかいいね。今度店の中も見てみよう。ブランド品も結構あるんですね、これが。20数年前のトルコや東南アジア諸国を思い出す。20年後のアフリカも変わるでしょうね。逆に、日本の状況はどうなるでしょうか。

さてと。コーヒーでも入れましょうかね。





1996:2013年12月28日午後7時

あと5日で元旦。

ネットでのニュースでも帰省客の状況が出ていた。そういう時期だね。

この時期、警察24時とかあるんだね、僕の大好きな番組が。

1日1ブログ投稿で元日を迎えようと思う。

仕事も今日は全く手をつけなかった。5冊、200ページの資料も部屋の床に置いたまま読まなかった。まあそういう時もあろう。資料自体は世界最高レベル。よく集めたものだ。水セクターではないんですね、こういう文献は。昼寝の夢でちょっといいアイデアが浮かんだが。

中身は極秘だからここでは書かない。いつものことだ。米国、豪州、オランダなど欧米がほとんどだが、一つだけ日本に本部のある国際機関の資料もある。意外だね。

昨日深夜、GIジョーの最新作を見てしまったので、午後は2時間ほどお昼寝。気持ちいいね。映画には、イ・ビョンホンが出ていたね。忍者役という設定。アメリカ人は忍者大好き。

さて、安倍さんの到着は予定変更のようだ。当地では秘密情報じゃないが、日本では一切日程が公表されていないようだね。少なくともメディアでは。面白い現象でもある。

今日もいい映画があるといいね。昨日はTwilightの最新作も見たが、あれは結構ハマるね。



2013年12月28日土曜日

1995:1976年の名曲たち

1976年、今からざっと37年前。

21歳だった時がある。まだまだ将来が見えなかったころだ。海外志向はあったが、具体に何をするかも思いつかなかったころ。

地域計画に興味持ったが、計画論自体が建築的で論理的な積み上げができないんじゃないかと疑っていたね。今もだけど。そうそう、あの頃、ぺタルマ市市役所まで行って、ぺタルマ計画を実見した。ぺタルマの本通りはアメリカン・グラフィティーのロケーション地。あの時一緒に行った奴も、その後オハイオ州大大学院に行ったが、あれからどうしたか?名前を思い出せない。

結果、その道には進まなかった。大成功。国際開発コンサルへの道が開けるのは、3年後の1979年だ。八十島義之助さんとの出会いまで待つことになるね。

あの当時は、まだ洋楽、特にFENから聞こえてくるアメリカのサウンドに嵌っていたように思う。特段好きな歌手やグループはなかった。FENといえば、年末の31日ぐらいに、年度ごとのベスト10曲を60年代から連続何時間も放送して、最後31日11時から午前0時で終わり、という番組があった。確か、部屋でずっとFENを聞いていたね。家族で紅白見るとか、初もう出行くとかしなかったな。

偶々、1976年のベスト65曲のさび(英語では、hook-lineというんですね)のところだけを集めたものがネットにあって、それら65曲の歌手と曲名を書き留めた。一瞬しか出てこないので65曲全部を書き留めるのにかなりの労力がかかった。時給?万円以上のプロのコンサルだから、その作業でいくらになるのかね?

結果は下記に示す通り。すべて知っている曲だ。あの当時、20歳代で洋楽が好きならだれもが懐かしいと思うでしょう。飲み友達の悪友O氏も気に入るだろう。76、77、78,79年あたりはいい曲ばかり。また暇があったら、77年以降もリストアップしておこう。


Abba                                   Fernando

                                          I do, I do, I do, I do, I do

Al Stewart                           Year of the Cat

Andrea True Connection       More, More, More

Barry Manilow                     This one’s for you

Bee Gees                             You should be dancing

Bellamy Brothers                 Let your love flow

Boston                                More than a feeling

Boz Scaggs                          Lowdown

Burton Cummings                Stand Tall

Captain & Tennille               Lonely Nights

                                          Muskrat Love

Chicago                               If you leave me now

Cyndi Grego                        Making our dreams come true

Diana Ross                          Love Hangover

Doobie Brothers                   It keeps you running

                                          Takin’ it to the streets

Dorothy Moore                    Misty Blue

Dr Hook                              Only Sixteen

Eagles                                 New Kid in Town

Electric Light Orchestra        Living Thing

Elton John                           Sorry seems to be the hardest word

              & Kiki Dee            Don’t go breaking my heart

Elvin Bishop                        Fooled around and fell in love

England Dan & John Ford Coley         I’d really love to see you tonight

Nights are forever without you

Engelbert Humperdinck        After the Lovin’

Eric Carmen                        Never Gonna fall in love again

Firefall                                you are the woman

Fleetwood Mac                    Rhiannon

Gary Wright                        Dream Weaver

                                          Love is alive

George Benson                     This Masquerade

Gordon Lightfoot                 The wreck of the Edmund Fitzgerald

Hagood Hardy                     The Homecoming

Hall & Oates                        Sara Smile

Heart                                  Crazy on you

Hot Chocalate                      You sexy thing

Jefferson Starship                 With your love

John Sebastian                     Welcome back

Kiss                                    Beth

Leo Sayer                            You make me feel like dancing

Manfred Mann                     Blinded by the light

Marilyn Mccoo & Billy Davis Jr.         You don’t have to be a star

Maxine Nightingale              Right back where we started from

Miracles                               Love Machine

Paul Mccartney & Wings       Let ‘em in

                                          Silly Love Song

Paul Simon                          Still Crazy after all these years

Peter Frampton                    Baby I love your way

                                          Show me the way

Phoebe Snow                       Poetry Man

Queen                                 Bohemian Rhapsody

Rod Stewart                         This old heart of mine

                                          Tonight’s the night

Rose Royce                          Car Wash

Seals & Croft                       Get closer

Silver Convention                Get up and boogie

Starbuck                              Moonlight feels right

Starland vocal band                            Afternoon delight

Steeve Miller Band               Fly like an eagle

                                          Rock’n me

                                          Take the money and run

Vicki Sue Robinson                            Turn the beat around

Wild Cherry                         Play that funky music
 
特に、北部加州で毎日聞いていて、今でも忘れられないのは、
 
Chicago
Eagles
Gary Wright
Hall & Oates
Peter Frampton
Paul McCartney & Wings
Phoebe Snow
 
そして、一発屋(英語でone-hit wonderね)の
 
Starbuck
Starland Vocal Band
 
だね。この2曲はアメリカの名曲中の名曲だと思う。
 
1976年はカーター大統領が出てきた年。ナイキがアメリカで出たころだ。音楽的にもいろんな楽曲が混在してたね。ロックもまだメロディアスだった。
 
20代後半になると、もうあんまり洋楽は聞かなくなったし、30代過ぎたらカラオケ派。
 
20代前半までの70年代の洋楽だけが残っているね。それと60年代の曲かな。こちらはアメリカン・グラフィティーの影響大。
 
ネットのお蔭で、懐かしの音源がアフリカでも聞ける幸運はないね。
 
さて、もう土日。作業を再開するかね。スケジュールが決まっているしね。

 


2013年12月27日金曜日

1994:湿度の高いお昼休み

昨日の降雨のせいか、今日の湿度は非常に高い。

これが雨季だね。いよいよ本格的な雨季になったか。

この雨季が衛星放送に影響するんですね。映画のいいところで中断する。

さっき計画部長とトイレで遭遇。彼もずっと休暇中だったが、これからはいるそうだ。いよいよ彼との具体の協議に入れる状況になった。これまで未知のことが多すぎて、計画論に入れなかった。

作業は順調。クライアントの指示である表を作成したが、要請では1枚程度のものが40ページ以上になった。当然のこと。プロのコンサルは手を抜かない。この表もこれから重要なものとなる。

最近使っている言葉。

Sensitization

Knowledge Mobilization

Information Dessimination

from wish list to blue print

いずれも重要なキーワードである。

トンカチの土木屋のお仕事とはずいぶん遠くなってきたね。

しかし、これが水行政や統治のプログラム管理業務の重要な要素なのだ。遅れているけどね。

IWRMなんて漠然とした用語を使っているようでは、課題の解決には遠のく。

さて、これで1994号。

何とか2014年1月1日には、2000号に達したいね。

1993:雷雨

昨日の夜は落語を堪能。

圓生で、

中村仲蔵

淀五郎

正蔵でお馴染みなのだが、今回はYouTubeで聞いた。WIFIの具合がいいので。

さすがに圓生だけあって、お見事。いずれも1時間はあるね。正蔵は30分ぐらいだからおよそ2倍の内容がある。数年前に初めて聞いた、中村仲蔵は、立川志の輔だったが、圓生と同じ内容だったから長いバージョンもあるようだ。

正蔵のものに馴染んではいるが、どうも圓生のは硬いね。説明があるので、不可解なことは理解できるが、正蔵のように面白味が少ない。

名人の圓生もいいが、正蔵のバージョンの方が庶民にはいいね。圓生のものは、赤門の落語研究会の人は喜ぶだろう。

そんなことで、深夜に寝たが、1時ごろ首都は雷雨に覆われる。砲撃があったようにすごい雷が落ちる。思わず、窓の傍のパソコンを退避させたぐらいだ。

朝のレストランもガランとしてお客はいないようだね。1月第1週の終わりごろお客が戻ってくるようだ。

2013年12月26日木曜日

1992:クリスマスは映画4本

風邪気味のクリスマスの祭日だった。

午前は、YouTubeで国際政治関連の動画を見て、午後は、映画を2本。

OZ: The Great and Powerful

The Hunger Games

両方とも結構面白かったね。最初、デズニーかー、とちょっと馬鹿にしていたが、結構見どころ満載。オズの魔法使いの20年前と設定されている。

後者は、よくある話で、奴隷が殺し合って最後にだれが残るか、というお話。主演の、Jennifer Lawrenceがいいね。東洋的な顔立ちで、精悍な女性だね。まだ23歳だからこれから有望。

さすがに夜は休もうと思っていて、奥さんとのスカイプ終了後、何気につけたら、

007: Skyfall

が始まっちゃった。実は、これ最後の10分ほど以前見てたのだ。結局見た。面白かった。がっかりさせないシリーズだね。MもQも秘書も変わっていく。今回の悪役は、あのJavier Barden。知っている人は知っているね。No country for old menでは、気がふれた暗殺者を演じていた。スペイン人。目に特徴がある。ああいう目をした人は日本人でもいるね。お馴染みのセリフもある。女性が危機的な状況の時、男性がやっと来て助ける場合に必ず出てくる文句ね。007シリーズももう50年。1963年からだから僕が9歳のころから。あのころは1,2年遅れて公開じゃなかったかな。お正月は、

007
若大将
クレージーキャッツ
ゴジラ

なんかを見たねえ。東京まで出かけて。良い時代でしたね。

さて、これで3本。もう寝ようかなと思ったら、

The Borne Legacy

が始まっちゃった。シリーズの最新作。これも見逃せないしね。プロの殺し方が鮮やかすぎて残酷さが気にならない映画である。





2013年12月25日水曜日

1991:ドクターX2最終回を見たーー。

午後10時。

さきほどまで、念願のドクターX2の最終回を見ていた。

先日は、半沢直樹を全部見たが、ドクターX2は最終回だけ。あんまり動画を見すぎるとホテルのWIFIが切れるので。因果関係はないとは思うが、動画を見た後切れることが多いのだ。

さて、主題。

最終回はそれほどわくわく感はなかった。予想通りの筋書き。それでもいいね。スッキリするね。

倍返し、に対抗して、

私、失敗しないので、という文句がいいね。

アフリカで見れたので良しとしよう。

明日はクリスマス。奥さんのプレゼントも朝起きたら開けましょうか。

クリスマスなので仕事はなしでもいいのだが、内容がかなり面白いので取り掛かりたいね。いよいよこれからが本番だ。後、7週間で完成を目指す。

2013年12月24日火曜日

1990:代替タクシーを確保

クリスマスイブの半日。

12時には送迎用のタクシーが来ることになっていたが、11時半に電話があり、オフィスがある下町には混雑で入れないとのこと。

こういうことは想定している。

ティボリホテル前のタクシーを捕まえて無事にホテルに戻る。

途上国ではこういうことは良くあるのだ。昔、インドネシアのジャカルタでラマダン明けの休日で、やはり下町からタクシーが一斉に消えた。インド製のタタをやっと捕まえて帰路についた。あの時は夜だったからちょっとパニくった。

今回は真昼間だからさほど危機感はないが、パソコン2台、パスポート、現金など貴重品を抱えて道路に立っているのは危険なことなのだ。クリスマスイブでもあるしね。

代替手段は生活上も必要なことを常に意識していないと途上国の仕事はできない。

さてホテルでちょっと休憩だ。

南スーダンは大丈夫なのだろうか?知り合いも行っている。当地とは比べ物にならないくらい危険地帯だ。

1989:オフィスも閑散

今日はクリスマスイブで半日だが、ほとんどの職員はいないし、午前の段階で早退、実家に移動が多い。三々五々、みなさんご帰還だ。

明日から1月5日まで飛び飛びの連休。

25日:クリスマスで祭日(モスレムが全人口の40%いるので正式には家族の日)

28,29日:土日

元旦:祭日(クリスマス休暇のおまけ的な休み)

4,5日:土日

2月まで長期休暇組もいるからいいね。CP職員もそうだ。丁度2月中旬にレポートが出来上がるので丁度いいか。

今の「要旨」の段階で、すでに100ページ。最終版はどのくらいになるかねえ。

あと1か月半、淡々と粛々と作成作業を進めましょう。





1988:今日のニュース

南ア・ヨハネス空港でのBAの事故。

映像で見ると知っている場所だ。以前から、ジェット機のタクシーでの移動を見ていたが、危ない箇所だった記憶がある。トランジットで時間があると別の便の移動を何度もじっと見ていたが、タクシーへの移動の前段の場所に何の目的か知らないが邪魔な構造物がある。

今回、BA機はその建物に主翼がぶつかったのだ。あぶないなー、と思っていた。

さて、次は、AK47を作ったカラシ二コフ氏が96歳で亡くなったニュース。AK47のことは以前書いた。優秀な自動小銃である。

どんな環境でも誰でも扱える。ユニット化している。故障が少ない。武器ではあるが、機器とはどうあるべきかを教えてくれる。

製作者がまだ生きていたというのもすごいね。

明日はイブでオフィスは半日。作業はまだ続くねえ。でも面白いから苦ではない。

大学院の同期に季節のご挨拶状をメールしたが、返事は誰からも来ない。サラリーマン諸君は毎日大変なんですね。特に都庁の役人は、例の猪瀬さん事件で大変なんでしょうね。

3流コンサルの取締の奴は、出張中の富士山の写真をコメント代りに送ってきた。お気楽だねえ。60歳からどう生きるか真面目に考えてほしいものだ。他人事だけどね。

33年前の院生も今は哲学なしの生き方らしいね。残念。

2013年12月23日月曜日

1987:日本事情(BBC特集)を伝えるキャスター

BBCで日本の特集をやっていた。女性の社会進出の課題。

兎に角、日本における女性の社会進出は先進諸国の中でも非常に遅れているのが実情。コンサル業界もひどい状況だ。

その特集を伝えるのは、例のLinda Yuehである。台湾系の移民でアメリカ育ちの才女。経歴は前に書いた。

日本だったら当然大井真理子さんが登場なのだが、彼女もNYに行き、その後BBCラジオの方に移った。移らされた可能性もあるね。

Lindaに比べたら大井さんはまだ新人。とてもYuehにはかなわないね。ファッションセンスは二人とも最悪。それだけが共通点かな。

BBCには、カナダ人のおばちゃんで非常に優秀なチーフ特派員がいるね。北米英語だから目立つが、長年の経験がものを言っている優秀な方だ。

大井さんもまだ30歳ちょっとかな。10年くらいラジオで修行するといいかもね。

ネイティブじゃないけどがんばってほしいものだ。

1986:23日お昼

クリスマスも2日前となると仕事に向かう職員もわずかだ。大方の人は休暇中か、これから1か月以上の長期休暇の人もいる。

今日は午後2時から部内のお食事会だが、僕はホテルの50日分の宿泊代を現金で支払うため換金所に2時には行くので参加しない。

5000ドルの換金だが、ホテルの隣がmoney changerだから便利だ。前回はほとんどクレジットカードで支払っていたが、今回は現金だ。長期滞在のため。

あと1時間ほどでホテルに移動。明日も半日で25日は祭日。

作業中のある報告書も大方できた。過去に見たこともない内容で、コンサル人生で初めて作成した。ネタ本はあるんですね、これが。ここでは書けないが、うちの奥さんには伝えてある。

次の段階で作るものも人生初めて。これが本格的なもので、今作成しているのは第1段階のもの。何のことか分からないね。こちらもネタ本がいくつかある。ただし、水セクターでは世界に例はない。

水セクターが専門だが、新領域には他のセクターよりかなり遅れを取っている。それを取り返すには他セクターの知見が必要になってくる、といった具合だ。

日本のコンサルも若干やっているが、論理的な筋道がないし、まだまだ確立されていない領域でもある。そうした新領域に挑戦するチャンスはあんまりないのが実情。

具体についてこのブログで書けるのは再来年だね。それでも入り口を開けるだけ。後は読む人の力量とセンスにお任せするだけ。

2013年12月22日日曜日

1985:ついにホテルの住人も7名に

朝飯を食べに降りていくとまだ用意はできていない。

7時20分ごろになってやっと開店。

食べ終わるまで誰も来ない。だろうね、クリスマス前だし。

作業中の掃除のおばさんとポ語で雑談。

おばさんが言うには、今日はもうお客は7名だけだと。

だよねえ。欧米人はもうクリスマス休暇で本国に帰っている。このホテルは3星でお客のほとんどはビジネス関係か国際機関関連の人たち。JICA調査団の定宿でもある。昨日いた2名の方もご帰国だ。

いいねえ。

小生は今だ作業中。年越しで3月中旬までいる。

普通の調査団だと大概年末年始は国内作業というのが当たり前。まあ例外はあるけど。

専門家は、年末年始を現地ということは多い。南米パラグアイの時もそうだったが、日系の内山田ホテルだったので、お雑煮もいただけたし、民放やNHKも見れたので年末年始の日本の感じは堪能できたね。ここアフリカはさすがに無理。隣国の首都の韓国系ホテルはJICAや青年協力隊の定宿だったからNHKは見れてようだが、僕は日本人が沢山いるようなホテルはあんまり好きじゃないので泊まらなかった。オフィスから遠いという不便さもあったしね。

作業も快調。

ジャズのアルバムを6巻続けて聞いている。奥さんがまとめて借りてきたものね。

まだ午前10時半。快調すぎて今日中に終わっちゃうので、適当にやろう。休憩入れるといい発想がでてくる可能性もあるしね。まずはコーヒーを入れよう。

1984:Assistant? A partner!!

日曜朝6時過ぎ。

きょうのシャワーはちゃんとお湯が出た。

曇り。

今日も作業だ。

昨日は久々映画を2本。

Salmon Fishing in the Yemen

Cloud Atlas

前者には、Emily Bluntがでているので、見続けた。コメディータッチのラブロマンス。既婚者の学者と、恋人がいる女性が、イエメンでの鮭の養殖事業を支援するというお話。Emilyは美人じゃないけど演技がいいんですね。今回はBBC映画なんで、イギリス英語を楽に熟している。

書くの忘れた、主題の文句ですが、最後の場面で、彼女の恋人が(ご親切にも)その学者と別れるという彼女に、学者との最後のお別れを行かせたんだけど、学者がこれから君もいなくなるしアシスタントがいないと事業が進められないと、言ったら、彼女が「私がパートナーとしてどう?」って言ったんですよね。めでたしめでたし。だけど、彼女の恋人はいい人だねえ。身を引いて彼女の幸せと本心を悟って彼女の肩を押したんだね。なかなかできることじゃない。

連続して見たのが、後者。SFもの。確か予告編でちょっと見たかな。19世紀から24世紀までの6つぐらいの時代の物語を関係づけている。輪廻転生的だね。話についていくのが最初集中力がいったね。久々のアンサンブル・キャスト方式。ガダルカナルの戦場物語以来だ。コンサルの調査団でも採用復活を以前ブログでも書いた。団長はどこかの大学の先生で、団員はそれぞれ一流の専門家から構成される考え方ね。

さて、韓国人女優も初めて見たが、最初日本人かと思ったが、やっぱちょっと英語が不自由だね。分かりにくい。全く美人じゃないし、魅力なし。よくあんな女優だすよね。大宮駅でも歩いているよ。

このところ、ホテルの衛星放送もTVC1にやっと戻ったんで、いい映画が登場してくる。TVC2はマイナーなものばかり。

今日も頑張って、夜は映画といきたいですね。

2013年12月20日金曜日

1983:水関連局の年末行事

今日のお昼は、総局全体の会議があるとのことで、参加した。

総局全体の職員参加だからかなり大人数。会場には、総局長、副総局長以下部長クラスがいましたね。

まず最初は、長期勤続者の表彰。20年ぐらいでしょうか。7,8人いたね。

それが終わると、別の会場で昼食会。

僕はちょっと宿題があるので不参加。

こういう式典も毎年恒例なのでしょう。来週はクリスマスで、年末年始で忙しいでしょうからね。先週あたりは、プレゼント一杯入った入れ物が所内や別の官庁でも見られた。この国の伝統なのでしょう。

さて、宿題もやっと終わる寸前。ホテルでちょっとやってまとめてメールで出そう。それくらいの余裕はある。日本は7時間進んでいるから、どっち道、見られるのは来週だし、月曜日は祭日。実質、火曜日。そういうことを念頭にして調整してきた。

これが済むと、3月中旬まで本格的なあるものを作成する。もう、ほとんど目次ができているので中身を入れるだけだ。入れる内容もすでにある。後は調整だね。

これから年末まで、10日。クリスマスを経て、のんびりしましょうかね。お餅も何個か持ってきた。お雑煮みたいなものはできるかな。年越しは、お蕎麦じゃなくで、うどん。まあいいんじゃない。

さてそろそろホテルに移動しよう。

1982:午後8時前、作業終了

楽しい作業が続く。

コンサルとしてはかなり難解で専門家も少ない領域だが、やっていて楽しくてしょうがない。

具体には書けないが。

明日提出の報告書をまとめている。まだ始まったばかりで、作業が進むにつれて内容が膨らんでいく。

4年前からやっているプログラム管理である。

プログラムだからいろんな課題があるが、今回は。。。

守秘義務があるのでこの先はいずれ。

このブログは結構自由に書いているが、守秘義務のある内容については一切書いてはいない。おバカな自分だが、それだけは軽はずみに書かないのは鉄則。

DELTAコーヒーを飲みながら書いている。今日朝、イタリアのILLYコーヒーの工場が紹介されていた。すごいね。世界のアラビカだけを扱って最高のブレンドコーヒーを生産している。ロブスタという種類もあるらしいが、ILLYはアラビカだけを扱っているらしい。

今回の出張にはILLYは持ってきていない。成城石井にあったね。缶入りが。今度持って来よう。

いまのポルトガルのDELTAもまあまあいける。ちょっと酸味が強いけど。

さっき、奥さんとスカイプしてて、話題になったのは、どうして理解されないか?という難問。

僕の答えは、相手の理解する「物差し」が短い、だから理解できない、とお答えした。

物差しが短いと、対象を測れないんですね。そういう風に考えると気が楽だよ、とよそながら助言させていただいた。

さてさて、猪瀬さん辞任後、これからまた騒がしくなるね。権力を目指す人たちの諸相を観察するのも一興だね。




2013年12月19日木曜日

1981:doubly landlocked country

二重内陸国を意味する。

世界では、2か国しかないそうだ。

ウズベキスタン

リヒテンシュタイン

国境の別の国に海がないことだ。2か国目でやっと海にたどり着く。

ウズベキスタンは3回行っている。首都はタシュケント。トルコ語で石の町を意味する。

なぜこんなことを書いているかというと、産経デジタルニュースを猪瀬問題で見ていたら引っかかった。

さて、内陸国って生活には不自由だ。ガソリンが不足。食料品は突然在庫なし。お隣の内陸国もそうだった。そこへいくと、当地は海があり開放的だ。物も豊富。

話は変わるが、今日の朝はタクシーでの通勤で大渋滞。運ちゃんの機転で何とか着いたが、帰りに聞いたら、大統領が移動中で道路が封鎖されたことに原因があるようだった。途上国はそういうことが頻繁にある。

内乱が起こっても海がある国はいいね。

今日は順調に作業が進んだので残業はなし。午後7時半。

1980:都知事辞任ですね

特定秘密保護法やNSC関連の他にネットでも賑わしているニュースは、

猪瀬都知事の5000万円借用の問題。

あの人ってとても威張っていて感じ悪い作家の一人だったね。あれよあれよ、という間に政治家に。小泉さんとか石原さんに取り入ってついに都知事に。

ああいうひとって、結構会社にもいる。大した実力もないのに、野心的。権力志向。

確か、猪瀬さんは信州大出身。

偶然にも、二人信州大出身者で猪瀬さんのような人を知っている。

東電とある独法の人。ああいう田舎育ちって野心的なんでしょうかね。

注: 後で気が付いたが、お二人は山梨大出身でした。同じようなものですが。

平気でウソまでつくからね。

大宅賞を取った、萩原遼さんの弁。

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彼の出世作「ミカドの肖像」に土地に異常に執着する堤康次郎(西武グループ創業者)が登場する。天皇周辺の宮家が戦後落ち目のときその土地を安く買いたたく。彼はアメリカの空襲のさなかでも地下室に幾台もの電話を並べて焼かれた人の土地を買いあさっていた、という人物である。天皇に取り入る手口は執拗(しつよう)かつ巧妙。そのやり方のえげつなさ。猪瀬は「鬼の亡霊に衝(つ)き動かされたゆがんだビジネスはいずれ破綻が待っている」と書くが、それを自らが立証した。

「ミカドの肖像」は、描く対象に批判的と思いきや実は自分の憧れを描いているのでは?と思わざるを得ない。彼の権力志向癖など、すべてこの作品に表れている。

私が同じ大宅賞受賞者として彼に忠告することがあるとすれば、芥川龍之介の「杜子春」の最後のくだり。

仙人になりたい一心から師鉄冠子の教えを水火も辞せず実践するが、馬に変えられた母親が激しくむち打たれる姿を見せられ、放棄する。

「これからおまえは何になるのか」。鉄冠子は問う。
「なにになっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」

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実に、見事な表現だね。猪瀬さん、さようなら。

次の都知事は誰でしょうね。ネットのニュースがまた騒ぎ出すね。

2013年12月18日水曜日

1979:日本版NSC

10月から当地に入っているので、特定機密保護法やNSCのことに関する情報をあまり得ていなかった。ネットでの情報は限られているから、ニュースだけだと情報がつかめなかった。

それで、YouTubeでいろいろ見てみた。

主要なジャーナリストが集まって反対集会を開いているのを見たが、違和感を感じたね、まず最初に。彼らには危機感があるのだろうが、一般国民からはかなり遠い考え、と思ったね。ジャーナリストはかなり胡散臭い。

次が、青山さんの参考人としての発言とその他関連の音源。納得のする発想だ。100%賛成。

次が、元内閣危機管理室長だったっけ。彼の発言も納得。筋が通っているね。

BBCでも昨日あたりから取り上げられている。ちょっと批判的。

結論。

秘密情報管理ができない国は独立国とは言えないね。世界の常識。

僕もジャーナリストにならなくて良かった、とつくづく思った。

2013年12月17日火曜日

1978:しまった、品切れだ

雨のお昼時。

中国系スーパーに行ってインスタントラーメンを買う。

品数は変わらないが、一押しの「香菜辛辣味噌ラーメン」が消えた。その代り、別の会社の新製品が登場。

まあ、同じ系列のラーメンなので良しとしよう。それにしても一押しは中国人が好きなんだろうね。

3種類買って、オフィスに戻る。

作業も順調だ。20日までの締切には間に合う。ブログで具体のことが書けないのであれだが、数年経ったら書くことにしましょう。

オランダ系のNGOから情報が入り、スウェーデン政府の資金で辺境州の案件がスタートする。我が国の案件も同時期にあるので、団長さんは大変だ。こちらは中央政府として対応する。むしろ楽だね。得た資料をさっき読んだが、結構な内容だ。オ国はその分野に関しては定評があるのだ。団長さんは、パラグアイ出身の日系人だからポ語の達人だが、英語は苦手のように見える。ポ語の達者な日本人はかなり稀だが、当然のこととして英語はそのレベルではない。両方できる人がいたら、こっちが惨めですからね。世の中は、うまくできている。

兎に角、コンサルは他の言語ができても、英語が一流でないといけない。まずね。インドネシア語、ヴェトナム語、中国語、タガログ語など現地語が得意な日本人は結構いるが、概ね英語は不自由。英語ができないから現地語に向かう方が多いが、総合的に見たらやはりまずいのだ。

雨も止んだようだ。

今日はちょっと残業でもしよう。



2013年12月16日月曜日

1977:長い長いお葬式

昨日はずっと作業だったが、BBCのマンデラ氏お葬式を実況を横目で見ていた。

3時間くらいでしょうか。

一人一人のスピーチが長いこと。

だが、アフリカの名士、伝説的な指導者も多い、たちのスピーチを聞く価値は高かった。

ジョークもいくつかあったが背景を知らないので笑えないものも多かった。

BBCも途中一切CMも解説も入れずといった方針。日本ではありえないね。

アフリカを一言で語るわけにはいかないが、このお葬式の実況を見る限り奥が深いことを知る。

夜の映画は見なかった。いいのがねえ。

その代り「半沢直樹」の最終回を再度見た。アフリカと違って日本独特の組織人はチマチマしているね。組織にこだわっている日本人の限界。女性が出てこないのも不思議な現象。

資源の無い日本。女性の活力を利用しない手はない。コンサルも女性が団長や所長でガンガン仕事しなきゃね。優秀な女性はみんな国際機関に逃げちゃいますよ。専門家からコーディネーターじゃもったいないけどね。

2013年12月15日日曜日

1976:A列車でいこう、じゃ乗り遅れるよ

今日は、Jimmy Arakiの伝記を読んだので、ジャズ三昧である。

YouTubeのお蔭でいろいろ聞ける。

戦後すぐジャズが流行り、サントリーが提供してラジオ番組でジャズをやっていたらしく、司会はロイ・ジェームス。50歳以上だったら記憶があるはず。

日本語のうまい外人というイメージね。82年に53歳という若さで他界したという。元々は、カザフのタタール系トルコ人。ロシア革命でずいぶんトルコ人が中央アジアから離散した。そういうトルコ人はトルコにもかなりいる。彼は両親と日本に来た。

さて、ジャズは特にレコードを買うほど好きではなかったが、聞く分には好きだ。

1976年、今から37年前に加州ベイエリアにいたが、KJAZがSFでジャズ専門FM局。

今日は、戦前から、いくつかランダムに聞いてみた。

Duke Ellington: Take the A Train

Benny Goodman: Sing, sing, sing

Art Blaker: Moanin'

Oscar Peterson

John Coltrane

Miles Davis

Herbie Hancock: Cantaloupe Island

A列車で行こう、という和訳は間違い。NYの地下鉄のAの看板の電車で行くと、ハーレムに速く行けるから、それに乗りなさい、という意味だ。遅れるとハーレムのジャズのチケットが買えなくなるよ。何か、遠距離の特急というイメージがあるよね。

実際、Duke Ellingtonの動画で歌詞が付いているが、早く乗らないとおくれちゃうよ、という歌詞がある。

ジャズは、やっぱり、ピアノがメインがいいね。弾けないけど。

奥さんがジャズピアノ弾けたら、いいな。僕はスコッチ飲みながら、ゆったり聞いている。もちろん、加州のベイエリアが望みだ。


1975:冬の駅からスカイプ

先ほど、持ってきた書籍の最後から2冊目が読み終えた。

「秋尾沙都戸子著
スウィング・ジャパン
日系米軍兵ジミー・アキラと占領の記憶
新潮社」

彼女のワシントンハイツは先日読んだ。本で知ったことの一つ。サントリーは元々「壽屋」が屋号。だから、寿という銘柄があるんだね。納得。昭和29年生まれは、戦後の日本を知らないのだ。

YouTubeでは、Jimmy Arakiが作曲した音源が一つだけアップロードされている。ジョージ川口も参加。1947年ぐらいだろうか。Jimmyはアルトサックスを担当だね。男ならサックスできるといいよね、憧れはある。ヤマハの音楽教室でも引退したら行きますかね。そんな気分にさせるいい感じの局に仕上がっている。

さて、最後の本は、

図説
占領下の東京

だ。これで最後だね。奥さんからの国際小包が届くのを待つことにしよう。

戦前戦後のドキュメントが好きでね。日系人には思いのほか思い入れがあるのだ。何でかは分からない。

以前アマゾンで戦後すぐの東京を舞台にした映画のCDも手に入れている。

ハンフリー・ボガード主演の「東京ジョー」

「東京暗黒街・竹の家」

まだ見ていないので、こんど当地に持参しよう。

激動の時代って魅力を感じるんですね。

さっき、オンにしてあった、スカイプに日本から電話が入った。長女を駅で出迎える奥さんから。スカイプも携帯でもタダだから助かるね。長女はもうクリスマス・パーティーの季節。いいね。

Kanto Plainも寒いんだろうね。

今日の仕事は終えたので、USB対応の外部スピーカーを設置して聞きながら書いている。

午後5時過ぎ。夕飯はどうしましょうか。

2013年12月14日土曜日

1974:ある商社マンのお話

僕の親戚・知人には数多くの商社マンがいるが、ここで書くのは先日当地でお会いした方のお話。

僕のホテルのロビーでお会いした。

南ア支店の方お二人。

男性の方は、何歳ぐらいなんでしょうかねえ。僕より上だと思うが、分からない。僕自身は59歳だが、まず49歳程度にしか見えない。お世辞じゃなくてね。人様より成長が遅いのだ。理解力も行動力も劣っている。いつまで経っても末席を汚している。

さて、彼は何をお聞きになりたいのでしょうかね。どなたのご紹介で僕の存在を聞いたが一切答えてくれない。ちょっと失礼。いきなりこの国での過去の実績からお話になられた。自己中心的な商社マンそのもの。人の話を聞きに来た誠実さと謙虚さがない。彼の「過去の栄光」は聞きたくない。

名刺を見ると、南ア支店のODA担当マネージャー。支店長じゃないんだ。ずっとアフリカの案件をやっているようだが、まあ60歳は超えているかな。定年後の嘱託かな。おじいさんの風貌だ。

もう一人は、女性。30歳前後か。賢そうだが、あんまり専門知識も経験もにじみ出てこない。こちらもマネージャー。調べると一橋大法科卒だってさ。

お二人ともマネージャーという肩書だが、要するに平社員。

実際、僕の話をじっと聞いて何か有用なヒントでも伺うという知恵はなさそう。単純に、案件売込みのお話だ。それにつけても、その手法が古臭い。昔のように商社やメーカー、コンサルが仕込んで自社に都合のいい案件を要請させる時代じゃない。10年前に要請したサンプルも頂いたが、そういう単発案件じゃねえ。今の時代じゃねえ、ODA案件で通らない。分かってないねえ。商社さん。

それに、6億程度の案件に日本の大商社が係るのはさみしい限りだ。100億以上大型案件でも仕込んでくださいよ。

コンサル会社も低迷しているが、商社さんも同様なんでしょうかね?!

中国や韓国に負けるのは当然だね。オランダ勢のように官民学の連携もないし。

日本の会社ってなんなんでしょうね。息子の行く会社もどこになりますかね。

1973:ウガンダからアクセスありがとう

妻とスカイプ中にテレビなどの電源が落ちた。

このホテルは電源が3系統あり、照明とACは別系統で、コンセント類はすべて廊下の配電盤の中のブレーカーがショートで落ちるようになっている。

偶々、ラーメンポットの設置で水が垂れてショートしたようだ。10年の隣国から4年目だが初めての経験だ。また実験するつもりだが、土日は作業なのでパソコン用の電源が使えないとまずいので少し様子を見る。

ラーメンポットが故障した可能性もある。

さて、主題。

最近、ウガンダからのアクセスが急に上がった。コンサルの人だね。情報通の小生なので、推測だが、たぶん、

「ウガンダ国A水力発電所整備事業準備調査(平成24年3月~平成26年3月(24ヵ月間)」

の関係者だろう。知っている人だね。

他社とのJVサブだね。サブは大変だね。

どうか、実現に向けて頑張ってほしい。ウガンダもいいとこらしいね、たぶん。



 

2013年12月13日金曜日

1972:アフリカを語るにはまだ早い

JICAのある所長さんが仰った言葉で、

「アフリカを語るには10か国以上の赴任経験がないといけない。」

というのがありました。

確かにね。54か国あるし、サブアフリカでも、東部、南部、西部。北部のアラブ諸国もある。

僕は当地でやっと6か国。だから、アフリカとは、といういい方はしない。

89年:ケニア。DDの現場で数か月、2回滞在した。宿舎とオフィスの往復。現場踏査。ケニア人との交流はほとんどなし。長距離で初めてファースト・クラスでナイロビ、ロンドン、成田。あれ以来経験なし。

96年:レソトと南ア。これもDDだからケニアと同じような環境。以前書いたようにいい思い出はないが、事務所職員のレソト人とは飲みに行ったりして、初めて黒人と親身に交流。

09から11年:内陸国の隣国。2年間、水資源関連省の本部内で従事。大臣から事務次官、局長以下職員の多くと交流。本当の交流ができたかな。

12年:ガーナ。研究プロジェクトだったので、大学関係者との協議がほとんど。これもまたいい経験。学者さんらとの知的な交流だね。

13年:当地。隣国での経験が活きている。ただし、ポ語との戦いあり。半年で慣れた。

さて、10か国まであと4か国。北部アフリカの国にも行ってみたいですね。モロッコは以前行けたのだが、JVのPCIが例の事件で扱けてしまって、1位指名を辞退した惜しい経験がある。

1971:金曜、朝6時15分

雨上がりといった感じの朝。

ポルトガルのDELTAコーヒーをHARIOの一人用フィルターを使って飲む。紙じゃないからいいね。網目の調子がいいので、ちょっと濃いコーヒーがいただける。

直ぐに洗って、ラーメンポットの上に置いておく。

清潔な環境。まさにCLTSである。生ものを部屋に置かない主義なので、部屋は基本清潔だ。冷蔵庫があればいいが、無くてもそれはそれでいい。

しっそな暮らしはいいね。体重も30歳前後ぐらいには落ちてきた。軽い体は気持ちがいい。80キロを切ったのではないかなと思う。海外はどうしても飽食になってしまうが、一人調査団の場合は自制できるのでいい。

アフリカではおいしいものはない、というのもいいのかな。これで、トルコとかだとうまいものだらけ。つい食べちゃうんですね。

昨日は大手商社さんと面談。今はねえ、商社やコンサルが仕掛ける案件はそうはない。やはり相手国政府との調整を経て、彼らが必要とする案件を選ぶしかない。ちょっと時代遅れな発想を感じたな。

作業は順調。あと1週間でとりあえずの峠は越える(はず)。それを超えると、2月下旬まで延々とある作業が続く。全体構想はできているので、骨格の肉付けだね。

読みかけの本を含めて2冊になった。奥さんからの選定文庫本を待つことになる。いつ届くんでしょうか?

2013年12月12日木曜日

1970:水曜、午後8時半

夜の残業はここまで。

第2段階の報告書の目次が新しい書式の下でできた。内容はすでに7割書いているので、新しい書式に移し、残りを加筆する。言葉の統一などお化粧もあるね。

書く内容は、これからどんどん増えていく。計画で実施される業務の結果などが書き込まれていくことになる。すでに終了した業務の結果も入る。

開発調査と技プロを同時にやっているような感じだね。それも一人で。

業務完了後のフォローアップ計画も入るのでややこしい。

さて、雑談。

BBCで面白い事件をやっていた。マンデラさんの追悼式のスピーチの隣で手話、英語ではsign languageという、をやっている人がいたが、この手話が全く意味がないという事件だ。僕のような素人が見ても分かる。手話は手だけでなく、口も動かすのだが、彼は全く表情がない。アフリカらしい事件だ。

マンデラさんは、最初(実は2番目だと今分かった、BBCでマンデラさんのドキュメントをやっている。3番目の奥さんはモザンビーク初代大統領の奥さんだった方。)の奥さんのウィニーの弁護士との浮気がバレて、彼女と離婚したが、それ以上の悪女だと、お友達のポルトガル人が話してくれた。この辺では有名な話らしいが、さすがに日本にまでは聞こえてこないし、BBCでもそういうことには一つも触れていない。離婚については放送していたが。

きれいなバラには棘がありますからね、と彼に言ったら大笑いしていた。

今日からオフィスで日本茶を飲み始めた。ティーバック3種。オフィスの同僚にも配った。ホテルでは、モンカフェが切れたので、ポルトガルのDELTAコーヒーをハリオの一人用フィルターで飲み始めた。食品類も徐々に現地化してきたね。



2013年12月11日水曜日

1969:オランダ政府および民間の海外戦略(水セクター)

昨日は、午前中ずっとオランダ大使館で協議。ドナー調整会議だった。

僕はいつも会議には余裕を持って出かける習慣があり、今回も受け付けのところでしばらく待っていた。無駄な時間と思われるが、意外な発見もあり、むだではないのだ。

受付近くにオランダ政府関連のパンフレットが置かれている。中で興味あったのが、

DutchWaterSector 2013-2014

という文書。

大使館だが、民間の活動にも熱心だということが分かる。大使館は民間の活動と連携することは重要であり、こうした活動の表れを示している。

この文書は、オランダにおける水セクター全体を網羅するパンフで、90ページもある。オランダ皇太子の序文から始まり、官民学の活動と関連機関が詳細に紹介されている。

国を挙げてのプロモーションである。

凄いね。

日本政府も官民学でPPPを海外で展開しているようだが、こうした文書(当然英語だが)をついぞ見たことがない。

英語ができないこともあろうし、センスの問題だし、連携がうまく行っていないこともあろう。

オランダのコンサルも世界的に大健闘しており、日本工営を代表とする日本のコンサルとは比較にならない活発な活動を展開している。

こういういい文書がさりげなく大使館に置かれていることに関心した。僕でも結構利用できるものだしね。

お・も・て・な・し

の能力はまだ日本の水セクターにはなさそうだ。明日三菱商事さんに会うので助言してみようかね。

1968:マンデラ氏追悼式でのオバマ大統領演説全文

Remarks by President Obama at Memorial Service for Former South African President Nelson Mandela


First National Bank Stadium
Johannesburg, South Africa

1:31 P.M. SAST

PRESIDENT OBAMA:  Thank you.  (Applause.)  Thank you so much.  Thank you.  To Graça Machel and the Mandela family; to President Zuma and members of the government; to heads of states and government, past and present; distinguished guests -- it is a singular honor to be with you today, to celebrate a life like no other.  To the people of South Africa -- (applause) -- people of every race and walk of life -- the world thanks you for sharing Nelson Mandela with us.  His struggle was your struggle.  His triumph was your triumph.  Your dignity and your hope found expression in his life.  And your freedom, your democracy is his cherished legacy.

It is hard to eulogize any man -- to capture in words not just the facts and the dates that make a life, but the essential truth of a person -- their private joys and sorrows; the quiet moments and unique qualities that illuminate someone’s soul.  How much harder to do so for a giant of history, who moved a nation toward justice, and in the process moved billions around the world.

Born during World War I, far from the corridors of power, a boy raised herding cattle and tutored by the elders of his Thembu tribe, Madiba would emerge as the last great liberator of the 20th century.  Like Gandhi, he would lead a resistance movement -- a movement that at its start had little prospect for success.  Like Dr. King, he would give potent voice to the claims of the oppressed and the moral necessity of racial justice.  He would endure a brutal imprisonment that began in the time of Kennedy and Khrushchev, and reached the final days of the Cold War.  Emerging from prison, without the force of arms, he would -- like Abraham Lincoln -- hold his country together when it threatened to break apart.  And like America’s Founding Fathers, he would erect a constitutional order to preserve freedom for future generations -- a commitment to democracy and rule of law ratified not only by his election, but by his willingness to step down from power after only one term.

Given the sweep of his life, the scope of his accomplishments, the adoration that he so rightly earned, it’s tempting I think to remember Nelson Mandela as an icon, smiling and serene, detached from the tawdry affairs of lesser men.  But Madiba himself strongly resisted such a lifeless portrait.  (Applause.)  Instead, Madiba insisted on sharing with us his doubts and his fears; his miscalculations along with his victories.  “I am not a saint,” he said, “unless you think of a saint as a sinner who keeps on trying.”

It was precisely because he could admit to imperfection -- because he could be so full of good humor, even mischief, despite the heavy burdens he carried -- that we loved him so.  He was not a bust made of marble; he was a man of flesh and blood -- a son and a husband, a father and a friend.  And that’s why we learned so much from him, and that’s why we can learn from him still.  For nothing he achieved was inevitable.  In the arc of his life, we see a man who earned his place in history through struggle and shrewdness, and persistence and faith.  He tells us what is possible not just in the pages of history books, but in our own lives as well.

Mandela showed us the power of action; of taking risks on behalf of our ideals.  Perhaps Madiba was right that he inherited, “a proud rebelliousness, a stubborn sense of fairness” from his father.  And we know he shared with millions of black and colored South Africans the anger born of, “a thousand slights, a thousand indignities, a thousand unremembered moments…a desire to fight the system that imprisoned my people,” he said.

But like other early giants of the ANC -- the Sisulus and Tambos -- Madiba disciplined his anger and channeled his desire to fight into organization, and platforms, and strategies for action, so men and women could stand up for their God-given dignity.  Moreover, he accepted the consequences of his actions, knowing that standing up to powerful interests and injustice carries a price.  “I have fought against white domination and I have fought against black domination.  I’ve cherished the ideal of a democratic and free society in which all persons live together in harmony and [with] equal opportunities.  It is an ideal which I hope to live for and to achieve.  But if needs be, it is an ideal for which I am prepared to die.”  (Applause.)

Mandela taught us the power of action, but he also taught us the power of ideas; the importance of reason and arguments; the need to study not only those who you agree with, but also those who you don’t agree with.  He understood that ideas cannot be contained by prison walls, or extinguished by a sniper’s bullet.  He turned his trial into an indictment of apartheid because of his eloquence and his passion, but also because of his training as an advocate.  He used decades in prison to sharpen his arguments, but also to spread his thirst for knowledge to others in the movement.  And he learned the language and the customs of his oppressor so that one day he might better convey to them how their own freedom depend upon his.  (Applause.)

Mandela demonstrated that action and ideas are not enough.  No matter how right, they must be chiseled into law and institutions.  He was practical, testing his beliefs against the hard surface of circumstance and history.  On core principles he was unyielding, which is why he could rebuff offers of unconditional release, reminding the Apartheid regime that “prisoners cannot enter into contracts.”

 But as he showed in painstaking negotiations to transfer power and draft new laws, he was not afraid to compromise for the sake of a larger goal.  And because he was not only a leader of a movement but a skillful politician, the Constitution that emerged was worthy of this multiracial democracy, true to his vision of laws that protect minority as well as majority rights, and the precious freedoms of every South African.

And finally, Mandela understood the ties that bind the human spirit.  There is a word in South Africa -- Ubuntu -- (applause) -- a word that captures Mandela’s greatest gift:  his recognition that we are all bound together in ways that are invisible to the eye; that there is a oneness to humanity; that we achieve ourselves by sharing ourselves with others, and caring for those around us.

We can never know how much of this sense was innate in him, or how much was shaped in a dark and solitary cell.  But we remember the gestures, large and small -- introducing his jailers as honored guests at his inauguration; taking a pitch in a Springbok uniform; turning his family’s heartbreak into a call to confront HIV/AIDS -- that revealed the depth of his empathy and his understanding.  He not only embodied Ubuntu, he taught millions to find that truth within themselves.

It took a man like Madiba to free not just the prisoner, but the jailer as well -- (applause) -- to show that you must trust others so that they may trust you; to teach that reconciliation is not a matter of ignoring a cruel past, but a means of confronting it with inclusion and generosity and truth.  He changed laws, but he also changed hearts.

For the people of South Africa, for those he inspired around the globe, Madiba’s passing is rightly a time of mourning, and a time to celebrate a heroic life.  But I believe it should also prompt in each of us a time for self-reflection.  With honesty, regardless of our station or our circumstance, we must ask:  How well have I applied his lessons in my own life?  It’s a question I ask myself, as a man and as a President.

We know that, like South Africa, the United States had to overcome centuries of racial subjugation.  As was true here, it took sacrifice -- the sacrifice of countless people, known and unknown, to see the dawn of a new day.  Michelle and I are beneficiaries of that struggle.  (Applause.)  But in America, and in South Africa, and in countries all around the globe, we cannot allow our progress to cloud the fact that our work is not yet done.

The struggles that follow the victory of formal equality or universal franchise may not be as filled with drama and moral clarity as those that came before, but they are no less important.  For around the world today, we still see children suffering from hunger and disease.  We still see run-down schools.  We still see young people without prospects for the future.  Around the world today, men and women are still imprisoned for their political beliefs, and are still persecuted for what they look like, and how they worship, and who they love.  That is happening today.  (Applause.)

And so we, too, must act on behalf of justice.  We, too, must act on behalf of peace.  There are too many people who happily embrace Madiba’s legacy of racial reconciliation, but passionately resist even modest reforms that would challenge chronic poverty and growing inequality.  There are too many leaders who claim solidarity with Madiba’s struggle for freedom, but do not tolerate dissent from their own people.  (Applause.)  And there are too many of us on the sidelines, comfortable in complacency or cynicism when our voices must be heard.

The questions we face today -- how to promote equality and justice; how to uphold freedom and human rights; how to end conflict and sectarian war -- these things do not have easy answers.  But there were no easy answers in front of that child born in World War I.  Nelson Mandela reminds us that it always seems impossible until it is done.  South Africa shows that is true.  South Africa shows we can change, that we can choose a world defined not by our differences, but by our common hopes.  We can choose a world defined not by conflict, but by peace and justice and opportunity.

We will never see the likes of Nelson Mandela again.  But let me say to the young people of Africa and the young people around the world -- you, too, can make his life’s work your own.  Over 30 years ago, while still a student, I learned of Nelson Mandela and the struggles taking place in this beautiful land, and it stirred something in me.  It woke me up to my responsibilities to others and to myself, and it set me on an improbable journey that finds me here today.  And while I will always fall short of Madiba’s example, he makes me want to be a better man.  (Applause.)  He speaks to what’s best inside us.

After this great liberator is laid to rest, and when we have returned to our cities and villages and rejoined our daily routines, let us search for his strength.  Let us search for his largeness of spirit somewhere inside of ourselves.  And when the night grows dark, when injustice weighs heavy on our hearts, when our best-laid plans seem beyond our reach, let us think of Madiba and the words that brought him comfort within the four walls of his cell:  “It matters not how strait the gate, how charged with punishments the scroll, I am the master of my fate: I am the captain of my soul.”

What a magnificent soul it was.  We will miss him deeply.  May God bless the memory of Nelson Mandela.  May God bless the people of South Africa.  (Applause.)

END
1:50 P.M. SAST

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日本人でここまで一気にすんなりご理解できたら、実務者としてもうご立派です。国際人としては全く問題ありません。

1967:気まぐれにYouTubeを見る

7時ぐらいから暇なんでYouTube。BBCもマンデラさんばかりでね。

まずは、

高橋真梨子の「ごめんね」

たかじんの「やっぱ好きやねん」

をまた練習。前回出張時にかなり歌いこんでいるので、10月に郡山の佐藤君と1年ぶりに会って陣屋のクラブでお披露目したら、結構ウケたね。何百回も練習したしね。

で、

他の歌も探す。

恋に落ちて(徳永も歌っているね。英語の部分がいいね。ちょっと練習してみよう。うちの奥さんも歌いたいと申されていた。)

何も言えない(J-Walk)

駅(竹内まりや)

どうぞ、このまま(丸山圭子)

真夏の出来事(平山ミキ)

八月の濡れた砂(石川セリ)

どうも女性歌手が多いね。たかじん、J-Walk以外はね。たかじんの「やっぱ好きやねん」は女性心を歌ったものだし、歌いたい歌は女性の歌がほとんどだ。どうも男性歌手の男心の歌は苦手だね。

徳永英明の感じで歌うのいいですな。

「八月の濡れた砂」、あたりで、TBSの林美雄に引っかかり、すぐにFM東京の「きまぐれ飛行船」を思い出す。きまぐれ飛行船の最終回とか安田南とのやり取りを聞く。1974年から88年まで続いたことを知る。懐かしいね。

僕は、たぶん浪人して大学に入ったころだから、始まった当初から数年聞いていた。77年ごろまで。大学院に行ってからは聞いた覚えがないし、会社に入った81年以降も全く聞かなかったはずだ。角川の野生時代を読んでいたね。

片岡さんの声って、僕に似ていると再認識した。彼ももう72歳かな。ああいう風に歳を取りたいものだと以前書いた。

夜9時。雨が降り出したようだ。ハノイの雨季は湿っぽいが、ここの雨季はそうでもない。明日は会議もないし、知的な作業に没頭できそうだ。無い知恵絞って頑張りませう。





1966:火曜午後7時

午前のドナー会議は3時間。

まあ大した話はでない。某国のある思惑で開かれた様相。

我が国はあんまり係ることがないので、傍観だ。ただ、いくつかコメントした。

1.関わりのある行政組織図はもっと広範に捉えること。思惑で動いているので全体像が見えていない。作成者はこの国の保健セクターに係っていたことは事前に知っている。彼女の水衛生セクターの経験はないのだ。

2.CP機関と協議するのはいいが、もっと上の人と会うべき。部長クラスじゃ話にならない。僕はアポなしでも最高責任者と会えるけどね、と嫌味を言った。いい過ぎだね。これだから嫌われる。

3.今頃、IWRMって叫んでも、もう劣化している概念。もう2003年以降10年経っても成就していない。特に途上国では。欧州勢はまだIWRMと言っているのは笑える。

隣国の時と比べるとレベルが低いね、ドナーやNGOの。大臣とは言わないが、せめて事務次官クラスと話し合ってほしい。

ドナーのスタッフとかNGOとかに、この国でしか仕事の無い人が混じっている。何とかドナーに雇ってもらおうとして媚びているのを横で見ていると可哀そう。CIDAのローカルコンサルがそうだね。もうCIDAは存在しない。

そんな会議を終えて、午後は宿題のまとめ。クライアントからのコメント対応も半分終わった。誠実に対応することはコンサルとして重要だね。勉強にもなる。

持ち出しや手弁当も大事な仕事だ。後で効いてくる。

2013年12月10日火曜日

1965:Egregiously overlooked

夜は、映画鑑賞。
 
Victor/Victoria
 
1982年の作品だそうだ。入社後2年目。覚えていない。海外出張中だったかも。
 
Julie Andrews主演の男装の女優のお話。話は書かないが、アメリカでもゲイが少しずつ社会的に認知されるころかな。何となくそう感じた。
 
所で、彼女は1995年にこの映画をミュージカル化して大成功。次の年に、トニー賞にノミネートされた。しかし、彼女しかノミネートされなかったことに抗議。下記のスピーチをして辞退したたそうだ。
 
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Text of Julie Andrews' Speech


09 May 1996
Julie Andrews announced her decision to decline her Tony nomination in the most dramatic way possible -- in costume, from the stage of the Marquis Theatre at the conclusion of standing-ovation curtain calls for her otherwise scorned musical Victor/Victoria after the May 8 matinee.

"Ladies and gentlemen, thank you for being such a wonderful audience this afternoon. If I may take just a moment of your time, I would like to share something with you.
"The 1996 Tony Award nominations were announced on Monday [May 6], and I applaud all my fellow nominees and send them many congratulations.
"However, flattered as I am, and honored to be also nominated, I have to say how deeply sad I am to be the only nominee in this extraordinarily gifted company.

"Victor/Victoria is a collaboration between designers, choreographer, director, cast and crew. An extremely happy and successful collaboration which makes it especially sad that so many of my colleagues have been ignored by this year's nominating process. I could not have done this alone.
"I have searched my conscience and my heart and find that I cannot accept this nomination, and prefer to stand instead with the egregiously overlooked Tony Roberts; Michael Nouri; Rachel York; Greg Jbara; Robin Wagner, who designed our sets; Willa Kim, who gave us our costumes; Jules Fisher and Peggy Eisenhauer, for our lighting; Rob Marshall, our choreographer; [composer] Henry Mancini; [lyricist] Leslie Bricusse; [co-composer] Frank Wildhorn; [director/librettist] Blake Edwards [who is also Andrews' husband]; our producers and 75 other members of the Victor/Victoria family.
"We stand together in celebration of our show and of audiences like you who stand for us. Thank you."

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首題は、「無礼にも見過ごされた」人々、上記の場合は制作関係者だが、こういう状況の場合には良く使われるフレーズになっているそうだ。

昔々、高校生の時だったかな。初めて買ったLPは「Sound of Music」で、このレコードで英語の発音を練習したのを思い出した。英語の発音はまずはきれいな方がいいね。英語米語に限らず。米語はやはりカーペンターズでしょうね。いずれも女性だが、発音は女性の方がきれいだ。赤ちゃんと同じような気持ちで覚えるといい。
 

2013年12月9日月曜日

1964:月曜午後4時半

先ほど、クライアントに大量のファイルを送付。

これでひと段落。次の作業を続行。

ホテルの部屋のキーシステムが故障したがホテルに戻ると治っていた。3Gの契約も更新してホテルのWIFIに頼らないでもネット接続が可能となった。

一安心。

ある評価手順を開発したので、早速適用する段階だ。中身は書けない。

関東も奥さんのメールによれば雪が降るかもしれないほど寒くなるようだね。当地は夏真っ盛り。クリスマス気分はでないね。

皇太子が南アに来るようですね。マンデラさんのお葬式列席。ここからは飛行機で1時間以内。意外と近い。

明日はいよいよドナー調整会議。オランダ大使館で行われる。結構しゃれた作り。先日会って話したオランダ人からメールが来て、僕の調査の内容が広範で詳細なことを褒めていたね。ありがたいことだ。これがインハウスコンサルの利点。ドナーたちがいくらすごくても内部には入れないのだ。

木曜は、久々大手商社さんと会議。来年安倍首相も来るので、事前に情報収集かな。民間の参加も必要だしね。できるだけ協力しましょう。

1963:Detachment

土日は作業を継続したが、うまい具合に午前中に終わったので、午後は音楽聞いたり、落語を聞いたり、映画を見たり、BBCを見たりして過ごした。お洗濯もね。

土日の作業も楽しいが、朝方からお昼ぐらいで終わると、快適だ。

昨日聞いた落語は、先代の円蔵。三平の息子じゃないよ。

山崎屋

中村仲蔵

いずれも何度聞いても飽きないね。円蔵が好きだからね。

映画は、夜で、Detachment。

2011年作で日本での公開はなかったらしい。主演は、Adrien brodyで、彼はいかにもユダヤ系の顔。

それにしても、日本での題名は親切すぎるね。

A piano manは戦場のピアニスト

Detachmentは優しい無関心

別に題名で解説しなくてもいいと思うのだが、こうしたご親切は日本の特徴だね。

Detachmentは、学校教育の問題を凝縮して、教師の目から見た問題を描いている。つまらなくはなかったが、面白くもなかった。お勧めするほどの映画ではない。だから日本での公開はなかったね。

明日はドナー会議。久々英語での議論に参加してみよう。

2013年12月8日日曜日

1962:日曜午後ロビーにて

ホテルのネットはまだ復旧していない。

午前は、15日までの宿題を前倒しで完了。20日までの作業に1週間余裕ができた。

あんまり気の進まない作業もあるが、その中から新しい発見があり、クライアントに感謝だ。世界で唯一の評価方法を習得できそうだ。セクターは違うが、水セクターでも適用可能。ありがたいね。

午後3時半。ロビーでは、日本人の調査団らしき6名の日本人がミーティング中。あんまり興味ないのだが、そういう一団は珍しいね。

アジアの技術支援のホットスポットはミャンマーだが、ここはアフリカのホットスポットだ。

ミャンマーも今は威勢がいいが、中東や比国の台風被害もあり、多少影響はあるかもしれないと関係者が言っていた。そうかもね。

4時前。そろそろ部屋に戻ろう。ロビーの日本人がうるさい。

2013年12月7日土曜日

1961:土曜昼過ぎロビーにて

朝からの作業で今日の分の仕事は一応終了。

捗ってますね。

直接計画に関係ない基礎情報でCPからは何のコメントもないのだが、東京の方はこちらの基礎情報を知らないので、気になるらしい。まあ大した仕事じゃないので淡々と処理した。

処理したことで、余計な事実も知ることとなり、意外に役に立った。いやな仕事でもポジティブに捉えると思いがけないお土産がいただける。

明日からは計画に戻る。これも先週あたりで構想はもう考えているので書くだけ。悩むことはない。

まだ2週間ほど工程的にはあるので、じっくり行こう。

ポ語の文書もほとんど問題なく処理できるのはいい。この半年でかなり改善されてきた。英語とラテン語系はほぼ7割の言葉を共有しているそうだ。専門用語ばかりの分野だから共有率はもっと高いかもしれないね。この分だと、案件が終了する来年の9月末までにはかなり上達すると期待している。アフリカにもポ語の公用語は何か国もあるし、東チモール、ブラジルなどの案件応札にはちょっとだけ点数が上がるね。

さて、部屋に戻って、テレビでも見よう。

1960:土曜朝

土日の作業の開始だ。

7時40分。朝飯後、ロビーで書いている。

というのも、USBタイプの3Gの1か月契約が切れ、同時にホテルの部屋のWIFIが不調。

ロビーのWIFIはさすがに切れることはないので、緊急事態時はここでアクセスする。あんまりないことだが、偶にこういうアフリカ的な現象もでるのだ。

奥さんにメールして、ちょっと作業的に必要な資料を検索。準備OK。

土日のホテルは閑散としている。日本人調査団の数人もいなくなった。

BBCはまだマンデラさん死去関連ニュースが続いている。それくらいの偉人でしょうが、ずーーーとやるのはねえ。他のニュースもやってほしいものだ。

映画の方はとんとご無沙汰。TVCも地味な2になり、南アの映画専門チャンネルもスポーツチャンネルに変わってしまった。作業的には忙しく映画を見る暇もないので丁度いいか。

12月7日。もう日本も忘年会シーズンでしょうね。クリスマス、年末年始。いい季節だ。

お酒カラオケ好きの小生はアフリカで修行中。帰国する来年3月までお楽しみはとっておこう。

さて、デルタコーヒーでも飲んで作業でも開始しますかね。

2013年12月6日金曜日

1959:金曜午後5時

BBCではずっとマンデラ氏死去に関するニュースを流している。

安倍首相のコメントもでたね。

今日は、作業的に進んだ。宿題の整理と計画論の続き。

まだまだアウトラインだから穴が多いが少しずつ情報を入れていく。

今日は大事な定義のまとめ。

ガイドライン、マニュアル、ハンドブック、テクニカル・スペック。

教訓と良き実践と成功事例。

いずれも漠然と使っているケースがあり、計画を進める上で定義は重要なのだ。

マニュアルも、運用、技術、社会、研修者用。。。と多種多彩。

関係者一同が共通認識を持つことが必要なのだ。

土日も作業が続くが楽しい作業だ。BBCでも見ながら進めよう。それにしても大井さんはまだ登場しないね。不思議の一つでもある。Twitter見たらずっと日中のラジオ用の取材だったそうだ。なるほどね。テレビからラジオに移ったようだ。まあそのうち戻ってくるだろう。ラジオで修行の為直しだ。

1958:マンデラ氏死す

120号に、マンデラ大統領の言葉を書いた。

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2002年に南アでWSSD会議が開かれたがマンデラ大統領が下記の言葉を記した。

"Among the many things that I learnt as president was the centrality of water in the social, political and economic affairs of the country, the continent and the world."

Nelson Mandela, World Summit on Sustainable Development, Johannesburg 2002

IWRMを連呼するだけでなく自然でインパクトのある表現で水資源管理の重要性を発信したいものである。centrality of waterは中々意味の深い言葉である。positional importance of waterとも言えるか。

IWRMを推進するには豊かな表現力と説明力が必要である。総合的な知が重要である。

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昨日はオランダ大使館で協議したが、偶然にも上記の言葉を思い出し、担当官に伝えたばかりだった。

合掌

2013年12月5日木曜日

1957:5年間の検索数ベスト10

このブログの過去5年間で読まれたベスト10は以下の通りとなった。上から、1位から10位までを示す。
 
 
 
 
 
 
 
 
2011/01/01
 
 
 
ただし、何かの自動検索でアクセスされているもの多く、1、2、4位などがそうだ。
 
ぶ動詞、運用マニュアル、イアン・カルダーなどは確かに個人の検索結果からでてくるもので、彼あるいは彼女に知的(?)な情報を提供していることが分かる。 
 
第10位に行き成り登場したのが、ケネディー大使のプレゼン全文。たったの1週間ちょっとで10位に躍り出た。彼女への関心の高さでしょうね。
 
このブログは有名人のものでもないし、検索されることを狙っているわけではないが、一般の方への情報提供に多少貢献しているのは幸いである。
 
ケネディー大使がどこまで浮上するかも興味ありですね。

1956:午後5時、休憩中

今日は会議の調整で始まり、2時間のCPとの協議で終わり。

昼は久々中華屋に行き、あの海鮮焼きそばを頂く。いつも1時過ぎに行くと満席に近いが、12時過ぎに行ったらガラガラだった。なんだ、これなら12時過ぎの方がいいね。帰りに、中国系スーパーで香菜辛辣味噌ラーメンを大量に買う。若干在庫が少ないので多めにね。

午後は会議。なかなかCP側の対応が悪かったが、今度はかなりいい。改善と熱気が出てきた。期待感からくるものと察する。いいね。ココまで来るのに半年かかった。

部長も慣れない英語で対応し、職員にも英語を使うよう指示。こういうの、かなり珍しいことだ。

2年前にパラグアイに行ったときには、電力公社の責任者が、いきなり、

「あなたは西語ができないですね。それで仕事できるんですか?」とコメント。びっくりしたが、百戦錬磨の小生。

「西語ができない専門家と西語ができるが専門性がないのと、どちらをお望みなんですか?」と切り返した。むろんどちらもあればいいが、後者の方が前者より課題解決にはふさわしい、と説明。

彼も納得、調査結果を協議し続ける段階で、彼も英語を話すようになり、小生の調査結果に耳を貸すようになった。通訳の日系人との連携も効果的だったけどね。

明日の会議もポ語だが、自己紹介ぐらいはポ語でやろうかと思う。

英語だと会議の前のお祈りまで熟す(隣国の英語圏)のだが、ポ語ではそこまで行っていないし、そういう習慣はなさそうだ。

2013年12月4日水曜日

1955:仕事を辞めてもいい時とは?!

<仕事を辞めていい時の見極め方>というネット情報があった。

中身は検索できるので見てほしいが、列記すれば以下の通り。

1.その仕事そのものに魅力を感じることができず、他の職種に異動できない場合(コンサルの仕事の9割以上は雑用だ。)

2.精神的な、肉体的な疲れが強く「もう、限界……」と感じる時(海外、途上国暮らしも楽じゃない。)

3.職場の上司や同僚との摩擦が絶えない場合(精神障害を起こす所長や団長も多いし、おバカな事務屋もいるし大変だ)

4.生活リズムが著しく破壊される時(残業と土日作業は当たり前)

5.仕事のイメージが湧いてこない時(考えることがコンサルの常。自分を追い込んで、常に勉強だ)


僕自身のことを言えば、今の会社は4番目の会社だけど、次々にいい環境を求めて積極的に転職したわけではない。所属する会社の事情の変化が大きい。受身だね。

知人たちのイメージは全く逆で、転職する時点でリアルタイムでの最適な環境を選んでいると、いい方に誤解されている。

僕は、計画屋であるから、事務系のサラリーマンではない。所謂、専門職。

上記の5つでいうと、すべて仕事をするうえで有りうることだが、それらを克服する気持ちがかなり強い。昭和一桁の両親の影響もあり、そう簡単なことでは、諦めない癖を身に着けている。いい悪い両面あるが。クリスチャンだし、逆境には頗る強い。

だから、上記5つすべて当てはまる職場環境でも、どうにか耐えてしまう「欠点」がある。

しかし、世の中良くできたもので、そういう状況で耐えていると意外な転職の機会がひょっこりでてくるのだ。ただ、それに乗っかっただけ。現状から逃げたわけではない。突然の解雇でも、捨てる神あり、拾う神あり、でいつも迎い入れてくれる会社が数社待っているのだ。その時点で行くべき会社を決めていただけ。

今の会社はもうサラリーマン的な職場環境ではないので、たぶんもう会社は変わらない。会社自体が廃業する場合はしょうがないが、個人の力量で仕事を受注しているので、会社が変わっても何の変化もないのだ。

失業の経験がないので何とも言えないが、仕事を変える場合は、次の職場を確保してからがいい。独身ならいいが、家族がいる場合は最低限の収入がないと迷惑をかける。

今は僕自身の問題はないが、子供たちの今後を考えるといい助言はできそうだ。失敗を数多く経験しているできの悪いお父さんのほうが助言しやすいね。できすぎた親の方が子供たちはつらい。親を乗り越えられないという精神的なストレスは人生そのものに影響するから仕事より深刻なんですね。赤門でて組織のトップになったようなお父さんの子供にはならなくて、僕は本当に幸せでした。ケセラセラの不真面目なお父さんは子供にとっては心地いいものだから。

1954:午後8時半、作業終了

夕方から雷雨。

このところ雷の発生が徐々に多くなっている。

12月3日。すでに雨季だ。

2010年から11年まで、ちょうど隣国の内陸国で南部アフリカの雨季を経験している。

水道が止まっている。ホテルの断水も珍しい。

会議が追加されたため、集中した知的な作業がなかなかできないでいる。書くことはもうあるのだが、書く時間が乏しい。まあ、何とかなるでしょう。

素案は敢えて用語の矛盾をそのままにしている。当然、コメントは来るが予想通りの展開である。コメントを反映した形で、用語を統一したり、定義を明確にしていく。

ある意味、確信犯なのだが、最後に明確に定義や用語を示し、合意を得るように図る。ブレイン・ストーミングの応用だ。コメントは多量に出させ、それらを基に徐々に絞り込んでいく。最終的な答えは事前に用意しておくことが重要。

始めからできすぎる内容を出して、否定されたら元もこうもない。素案から100%完成形を出さないことだ。そっとしまっておく。

コメントが出し尽くされたところで、決定打を打つ。

後は整理してまとめるだけだ。

ただし、これはコメントが出てくる場合に限る。途上国では、こちらの報告書にコメントをつけることは稀なのだ。困るよねえ、こういうのは。最高責任者に喝を入れてもらって何とか進む。政府職員らは少数だし、雑用で忙しく、考えるという習慣が欠如しているのだ。能力開発の難しさ。

マニュアル作って能力開発が改善されるというのは、「都市伝説」なのだ。マニュアルの可動化。それがヒントだ。どう可動化させるかが問われている。

2013年12月3日火曜日

1953:午後4時半、ホテル

今日は湿度の高さを感じたオフィスだった。

会議が終了し、ひと段落した。

でも、フォローアップが2つ設定された。具体は書けないが。

別の会議がいくつか予定されている。オランダ政府は間もなく。スウェーデン政府はキャンセル。別のプロジェクトの監理員会会議。来週はドナー会議と商社との会議。

落ち着いてレポート作成できないが、それはホテルの第2執務室でとなる。それで何とか帳尻を合わせるのはいつものことだ。

東京からのコメントもあるしね。

マルチタスクである。一人調査団の最骨頂。

さて、作業に戻ろう。

1952:ファティマのロザリオ

我々ローマン・カトリックにとっては、十字架、おメダイ、ロザリオというものがある。

ロザリオは、イスラムでも同じようなものがあるが、祈りの回数を指で数えるためのものだ。

普通は長いもので、違うお祈りを間違いなく行うことができるようになっている。

先日、ポルトガル系の移民の非常職員のクレメンテさんが、君にあげるものがあると言っていた。今日の朝、それを頂いた。

ロザリオで、指輪のようになっている。10個の突起があり、小さな十字架の周りに5個ずつリングの周りにある。写真でも載せればすぐ分かるのですが。

彼からは、母上からのものであると言う、いわば形見の品だ。そういう大切なものを小生にくれるのも理由がある。

彼の一家はユダヤ人。おじいさんがポルトガルから避難して当地の植民地に移住してきた。彼は当地で生まれた3世だ。

お母さんの家系は知らないが、カトリックのロザリオを何かの理由で持っていたようだ。詳しくは知らない。

ロザリオの裏を見ると、小さく「Fatima」とある。なるほど、ポルトガルで最も有名なカトリックの聖地なのだ。ポルトガル人であれば当然一度は行くはずだ。

そういう大切なものを頂いたことになる。何かの啓示であるかもしれない。

1951:人間の諸相

人というものは計り知れないものがある。

なんでそんなこと?

実は、このブログでは、尊敬している人だけは実名で書いている。反対の場合は、匿名だ。

これまで、

今川中学校の出水操先生

古巣の最大手コンサル会社の上司、大村精一氏

元鹿島のサムライエンジニアの赤堀篤良氏

いずれも故人だ。

他にも忘れられない方々を何人かご紹介しているが、一昨日、このブログに示しているメルアドにお便りがあり、小生が紹介したある方のことを見て、びっくりされ、お便りをくださった方がおられた。

メールに書かれている印象が僕の記憶とあまりのも違うので、改めてメールして、ぼくの知っている人かどうか確かめさせていただいたのだ。刑事みたいだけど。

再度、お返事があり、確かにそうだと確認した。そう、そう、その通り。

会社で20年近く知っている上司の別の性格や行動パターンは想像を超えたものだったのだ。

しゃれたイタリヤ料理が好きだったり、オペラを歌うコンサルの大先輩もいるが、そうした諸相は仕事上でも知りえる。当然だが、別の個性が会社内での交流では知りえないこともあるんですね。

人の心やプライベートの活動などたぶん全然知らないことの方があるんですね。

人間の諸相。ミステリアスですね。

匿名の方に関しては、今のところそれが誰なのかのお問い合わせはない。安心。

2013年12月1日日曜日

1950:アウンサンスーチーさんの英語力

BBCを横目で見ながら作業中。

不謹慎だが、まあそんな調子で休日の作業は行っている。

さて、世界HIVデーの会議でアウンサンスーチーさんがスピーチをしている。素晴らしい英語だね。

1945年生まれ。60年に母親がインド大使になったため、インドで学び、その後、英国のオックスフォード大で学士。

ミャンマーはもともと英国の植民地だったから子供のころから英語はできただろう。英国で磨きをかけたことが頷ける。

さて、1990年代の初めだったか、トルコの案件で元いた会社の幹部と議論していて、アウンサンスーチーさんの話題が出た。その後会長になられた方は、彼女が好きではないようだった。僕は彼女に好感を持っていたので反論した。そんなことを思い出した。

彼女も1990年代から今まで20年も幽閉。現在、68歳。健在だね。お顔も生き生きとしている。男性だったら20年の幽閉でおしまいだね。

女性を侮ってはいけないのだ。

国際開発管理の領域でも多くの女性が活躍していて、アフリカなどではむしろ女性の方が優秀で、水衛生セクターでは圧倒的な勢力なのだ。

日本のコンサルタント会社も女性が幹部になっていくようでないといけないね。

前会長さんの彼女に対するお考えは変わったかな??彼の英語力は彼女の足元にも及ばないことだけは確かだ。残念。

1949:4年半で6000通

首題は何を意味するか?

この4年半でのうちの奥さんからのメール数だ。同じくらいのメールを僕の方から出している。メールはすべて残しているし、妻とのメール専用のボックスに格納しているから総数が分かることになっている。

日ベースだと、3.6通となる勘定だ。

これが多いか少ないかは判断が分かれるが、1通出して、その後やり取りと考えれば、まあ1日3通というところか。朝晩で2通もありだね。それでも平均4通だからね。あきれる人もいるだろう。

09年5月からの統計だから納得はできる。そのころからずっと海外なのだ。

南部アフリカ:2年
ガーナ:1か月
パラグアイ:4か月
トルコ:1か月
サモア:1か月

そして、

再度、南部アフリカで現在出張中(1.5年)

話が尽きないというのが最大の理由かな。昨日もスカイプで話したけど。おのろけじゃなくて、そういう夫婦の形なんですね。

お勧めしているわけではないのですね。

1948:歳を取るということ

朝6時過ぎ。

昨日は雷も発生し、降雨量もかなりあったように思う。やはり12月。雨季の到来であろう。

今日は5時前に起床。寝るのも早くした。早寝早起きの習慣化。

さて、メールをチェックすると元いた会社の先輩からメール。彼ももう66歳ぐらいか。60歳で定年、65歳まで再雇用。1年ほど前に退社した。うちの会社に入れてくれないかと相談されたが、競合してしまうので丁重にお断りした。会社を変えても個人の実力次第だからあんまり意味はないのだ。彼に遠慮して応札の調整を会社内でしたくはない。

彼は元いた会社からずっと以前に離れ別の中小コンサルを経て、上下水道を専門とする会社にいた方だ。主に役務(今は単独型に統合)で応札していた。

2000年代までは順調に年3,4件は受注していたと思う。2010年代に入って状況も変わり、年2件、1件と受注件数は激減。個人で応札開始したが、1件も受注できていない。

彼からどうして受注できないか相談を受けるが、彼は絶対ご自分の実力劣化を認めようとしない。クライアントとのトラブルがあったとか、受注要件が自分に合わなくなったとか、不当に扱われているとお感じになっている。負けて失注分析もしない。

実際は実力の低下なのだ。以前は案件も多くあり、まあ普通の実力なら取れた。今は、案件数も激減し、応札する方も多い。誰でもできるような案件では激烈な競争がある。環境影響評価や評価分析は特にそうだ。

だから以前のような対応では当然取れない。2位から、3位以下になる。

ご本人にとっては、過去の栄光が忘れられない。自分の実力が正当に評価されていないとお嘆きになられている。実力低下は絶対に認めたくないようだ。

結局、歳を取ることでプライド(不要な)だけが残ったということだろう。

こういう方は非常に多い。団塊の世代だね。

世界のエリートが持つ基本4原則はもっていないようですね。

特に最大手のコンサルに定年、再雇用までして65歳を迎えるかたを多く知っているが、会社に依存し続けたため、個人としてのコンサルの要件は満たしていない。むしろ、中小コンサルを40代で早めに辞めて、実力を維持している方の方が60歳を超えても評価される。

65歳まで再雇用されても、その後はどうするかが、一番の問題だ。年金だけでは食べていけない。

歳はうまく取りたいものだとつくづく感じる今日この頃である。