丁度このブログの回数も88から89になった。年号で言えば本格的な海外コンサル活動を始めたころだ。82年に初めてヨルダンのダム工事現場に行ったが入社間もなくであり専門家とは言えなかった。社内的にはOJTだったが客先に対しては専門家という立場だった。こういう無茶な経験もプロへの近道である。
さて、話はトルコである。なぜトルコなのかというと、保管している書籍類の総点検をしている最中に過去の海外出張時に収集したものが次々に発掘され、昨日はトルコ出張時に収集したトルコ歌謡曲のカセットがたくさん出てきた。それを聞きながら作業中である。
トルコの最貧辺境地域は南東アナトリアである。当時国際競争によって宿敵べクテルに勝利し、地域計画調査をトルコ政府から受注した。88年から89年にかけて数回現地で作業した。同時期にはアタチュルクダムが工事中であり、灌漑用水トンネル工事キャンプを借りて作業していた。以後96年までの8年間でトルコで6プロジェクトに参加することとなった。
ヨルダンで既に夏季の気温には慣れていたが、2週間の断水には参った。それでも作業担当である水資源システム分析の仕事は楽しいものであった。トランク一杯の書籍をオフィスで整理したら上司からちょっとした図書館だねと言われた。
地域の多くはクルド人であってトルコ軍との抗争もあったが、現地での治安の悪さは殆ど感じなかった。ちょっとした事件として覚えているのは、クルド人に誘拐されそうになったことと10人以上の暴漢たちに囲まれたことだろうか。今となっては笑い話だが、最悪な事態になればいずれも殺されていたであろう。生き延びられたのは多分彼らとのアイコンタクトだと思う。ある瞬間の見つめあいが生死を分ける。悪意と善意の鬩ぎ合い。日本人の苦手な側面である。IWRMのファシリテートはこうした修羅場を経験しないとできない(かも?)。
敵の中の味方は味方の中の敵より頼りになる。
トルコの歌謡曲は悲しい曲が多いがアンビバレンス的な気持ちが日本の演歌に類似している。聞くうちにトルコ語の単語が蘇る。世界水フォーラムも間もなくイスタンブールで開かれる。東西の狭間で有意義な議論が展開することを!!
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