2014年3月19日水曜日

2174:満鉄調査部の本

3月19日朝。

昨日あたりから春めいてきた。1週間も経てば、桜が咲き始めるだろう。いい季節だ。

さて、クライアントから連あり、協議日が決定。その準備に入る。再渡航は、まだ3週間先だ。

次回持っていく本も奥さんが買っておいてくれた。

さて、あるメルマガからの図書紹介が興味深い。

草柳大蔵「実録・満鉄調査部、上下巻」

下記に要旨を記す。

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上巻:

・満鉄調査部は、フィールドワークから作業をはじめ、
満州の原野から拾い集めた「事実」を組み立て、
これを「政策」にまで発展させて満州に働きかける仕事をした。

・満鉄調査部が蓄えた知性や方法論は、「らっき」が再び東の地平線から太陽になって昇るように、
戦後の社会に蘇生した。

・戦後の政界、官界、学界、経済界には、かつての調査部員の存在があり、
彼らが「経済成長」の青写真を書いた、といっても過言ではない。
つまり、日本は敗戦とともに「満鉄」をはじめ数多くのハードウェアを中国に置いてきたが、
「頭脳」というソフト・ウェアはすっかり引き揚げてきたのだ。

・その時代と人間にとって、大きな象徴がある。
「赤い夕陽」に染まりながら1万2000キロものびる鉄路である。
「南満州鉄道株式会社」、通称「満鉄」の存在は、さまざまな貌で人々の心の中で生きている。

・市橋明子が、夕陽についで不思議に思ったのが、祖国日本の生活設備の劣悪さであった。
満鉄の、たとえば付属病院にゆくと、給湯装置は完備していたし、
医療器具は自動化された滅菌装置のトンネルからベルトでながれてくるのだ。

・満鉄本社には600台のタイプライターがうねりを上げ、電話はダイヤル即時通話であった。
大豆の集荷数量・運送距離・運賃はIBMのパンチカードシステムで処理された。
特急「あじあ号」は6両編成で営業速度130キロをマークしていた。
しかも冷暖房付である。

・満鉄にはロシア語の2級ライセンスを持つもの4500人、
中国語や英語を話せるものは、いや、話せないものはほとんど皆無といった状態である。

・この質量ともに重装備の「満鉄」が日本の植民地経営機関であったことはいうまでもない。
事業のはじめは鉄道と炭鉱の経営である。
「満鉄」は満州で生活する人にとって「赤い夕陽」とともに不滅の殿堂であった。 

・この満鉄の頭脳に相当するのが「調査部」である。

・「満鉄調査部」が、その40年間に提出したレポートは6,200件に達した。
研究のために蓄積された資料は書籍・雑誌・新聞(外国紙)のスクラップを合計すると5万点におよぶ。
以上は、楊覚勇の8年間にわたる調査によってとらえられた数字で、
楊は「この成果は20世紀アジアにおける知識の大宝庫ともいえよう」と高く評価している。

・人材も豊富なら資金も潤沢だった。
昭和13年、松岡洋右が満鉄総裁として「大調査部」を創立したときは、
全スタッフ2,120名、予算は800万円(今日の38億円に相当)。
また「調査部」は満鉄本社の大連にあっただけではなく、
奉天、ハルピン、天津、上海、南京、はてはニューヨークやパリにも事務所・出張所を出していた。

・満鉄調査部は旧帝国陸海軍にとっても「頼りになる頭脳」であった。
昭和18年から終戦まで関東軍参謀であった完倉寿郎は、
毎月送られてくる「満鉄調査月報」をむさぼるように読んだが、
昭和19年に調査部が依託にこたえて作成した「極東ソ連軍後方準備調書」は、
完璧という名にふさわしい水準であったと追憶している。

・後藤新平が満鉄の初代総裁になったとき、「鉄道課」「地方課」「調査課」を満鉄の三本柱とし、
いわゆる「満鉄調査部」を誕生したのは、台湾の統治経験から出ているのであった。
後藤は、その立案や計画が、しばしば常軌を越える大きさを伴っていたので、
「大風呂敷」との異名も奉られている。

・後藤はその在任2年間という短時日の間に、
満鉄マンに金儲けや名誉のためではなく「仕事のための仕事」をするような仕掛けをつくっておいたといえる。
人間がみずから動機付けで仕事をすれば組織はいきいきと動くであろう。
後藤は、後世の人間が求心的な仕事をすることによって、
自分の属する組織の力を増幅させるような「なにか」を残していったのである。
この「なにか」の内容は3つあるように思われる。
「発想の新しさ」「実行の大胆さ」「人間に対する信頼」、
これが後藤の人格を構成していた三要素で、発動すれば「破格非例の措置」となって、
そうとうな業績を挙げることになったといえる。

・後藤が台湾統治政策の眼目としたのは、フランスのハノイ政庁が注目したように、
台湾における伝統的な慣習の調査(旧慣調査)だった。

・満鉄調査マンに共通するのは、「資料」と「歩く」ということだった。
満鉄に入社すると、まず2年間は、新聞雑誌の切り抜きと読書だった。
一人が毎朝5、6紙の外国紙をあてがわれ、必要な箇所を赤鉛筆で囲む作業をさせられる。
手慣れてくると、この作業は午前中に終わってしまう。

・午後からは読書である。
読みたい本は図書館にそれこそ汗牛充棟のさまで詰まっていた。
マルクス・エンゲルス全集はもちろん、ヴォルガの「経済年報」、レーニン著作集、
「1927年テーゼ」などなど、日本内地では読むことはもちろん、
持つことさえ危険になっている本も自由だった。

※コメント
満鉄調査部の徹底した資料収集や現場調査の話は、面白い。
ネットで情報を簡単に収集できる時代に、自分で一次資料で調べたものや足で稼いだ生情報は、
人々の魅力を惹きつける。

下巻:

・満鉄調査部に入って、資料読みの時代が過ぎると、「調査」に出ることを許される。
ところが、なにを調査するかは本人の選択にまかされていた。


・ただ「調査」にあたっては「歩くこと」、これだけは厳しく要求された。
いまの言葉でいう「フィールド・ワーク」である。
自分の身体は一ミリも動かず、資料をツギハギして報告することは認められない。


・野間清が農村調査に出るとき、上司である天海謙三郎は、
「調査すること自体が目的ではないんだよ。
調査を通じて、中国人と接触し、彼らを身体で理解することが大切なのだ」
と教えている。
その天海は東亜同文書院の出身で、中国の土地慣行調査のベテランである。


・満鉄調査部の伝統的特色を挙げれば、「自由主義」と「フィールドワーク」の2つだろう。
ことに「歩く」という伝統は、終戦の解体時まで続いている。
それでは、この「歩く」という伝統の起点はどこかといえば、
やはり東亜同文書院の性格と見なさざるをえない。


・上塚にかぎらず、浜正雄とか佐々木義武(元・科学技術庁長官)とか、
満鉄調査部出身で戦後の経済計画を手がけた人は多いが、
いずれも綿密な資料の「読み」から入る特徴を持っている。


・満鉄調査部の実績を語る際に、「東亜経済調査局」とともに紹介しなければならないのは、
「ハルピン事務所」の存在である。
満鉄のロシア調査は「精密」の一語に尽きている。


・この本の資料を求めてアメリカに滞在中、私はアメリカ人2世からこんなエピソードを聞いた。

国務省の役人がシベリアの森林資源を調べることになり、
大学や国会の図書館で該当する書籍を片っ端から読んだ。
専門的すぎたり、局地的にすぎたりして、どうも満足がゆかない。
最後の方で、彼は満鉄の資料にあたってみた。
一鉄道会社の発行によるものであり、しかも報告者の名前はないので、
最初から軽く見ていたのである。
ところが、彼は満鉄資料を読み終わった途端、声をあげてくやしがった。
「しまった!これを最初に読んでおけば、あとの書籍は読む必要はなかったのに!」


・その資料には、シベリアの森林の位置、木の種類、成長の速度、伐採方法、
搬出のルート、そのうえ森林に棲む動物の種類と行動まで書き込まれていたという。


・大正11年、満鉄は通称「オゾ」と呼ばれ、
世界的に珍重されていたロシア語の図書1万2000冊をハルピンで手に入れた。


・ロシア調査の拠点が「ハルピン事務所」だった。


・満鉄調査部の仕事には、兵要地誌の作成や経済資料の収集のほかに、
中国の旧慣調査が重要な比重を占めている。


・内地からくる代議士、高級官僚、新聞人、財界の代表者、大物の大陸浪人などは、
必ず一度は調査部の上海事務所に顔を出して、満鉄のあつめた精度の高い情報を聞きたがった。


・満鉄調査部の主流はいわゆる「エキスパートネス」であり、
東亜同文書院出身者の実地調査が大河の如き伝統を作っていた。


・大調査部は戦争がはじまってからも「基礎調査」を続行していた。
硝煙の臭いの埒外で、中国や満州の農村を歩く調査員の姿は絶えなかった。


・満鉄調査部の命脈は日本の敗戦以前に尽きていた、
というのが関係者のほぼ一致した見解である。


・満鉄および満鉄調査部をさらに研究される方は、まず、
東京の国会図書館で基礎資料を読まれ、そのうえで専攻分野を選択して、
アメリカの国会図書館で原資料にあたられるのが適当かと考える。


・私見を付け加えさせていただければ、日本の近代史研究をより深めるために、
政府が国会図書館の一隅に「満鉄室」を設けてくれれば、
民間の研究者にとって幸いこれにすぎることはない。


・調査機能の質とその充実度は、国家の危機管理にとって必要不可欠であり、
また目標創出のための知的宝庫となるはずである。


※コメント
草柳氏のこの本は、満鉄調査部に関するゾクゾクするような面白い情報の宝庫だ。
ネットにある満鉄調査部に関する表面的な情報では決してない。
最近、昭和時代に発行された少し古い書籍をいろいろ読んでいるが、
彼らの本というのは、時間をじっくりかけ、
膨大な資料読みと関係者のもとへ出向いたインタビューを徹底している。
まるで満鉄調査部員のようだ。
見習いたい。
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国際開発管理コンサルタントにとっても非常に参考になる本だね。今回持って行けるかどうか分からないがぜひ読みたい本である。

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