ジョン・レノン物語
今日は帰国前の最後のドナー連携会議に参加した。CIDAは後退気味なので元気がない。メージャーなNGOは元気がいい。流石にバックにある政府がいるからだ。資金に不自由しない。
さて今日は新参のAUSAIDのミッションとチュニジアからAfDBのミッションが数名参加した。彼らも常連ではないので非常におとなしい。こちらは水セクターの情報ではドナーを凌いでいるので小生のコメント丁寧に書きとめてくれている。50代半ばともなると図々しくなったものだ。30年の重みはそう軽くはない。
ドナーやNGOも中々個人的には面白い連中なので最後のお別れも和やかだった。CIDAは劣化しているので多少胡散臭い対応だが。最強のNGOのお兄ちゃんはやけに親しげになったので不気味さを感じた。彼らも生活がかかっているので日本と連携する「利」を求め始めたか。アフリカ開発銀行もやけに友好的だし。まあ、いっか。
さてさて、帰国前の最後の映画はドキュメンタリー映画。へえ、ジョン・レノンの最後までを扱っている。80年に殺害されるまで、いろいろあったようだ。特に70年代彼の平和運動がニクソン政権を揺るがすことになり、アメリカからの追放の標的となったようだ。結果としてグリーンカートを手にした。そんなことは日本にはあんまり届いていなかったか、或いはあんまり興味もなかったかもしれない。
ジョンの話す映像をかなり見たので、彼のしゃべり方のいいお勉強になった。かなり高い声だったんだね。リバプールの労働者階級の発音だが、インパクトがある響き。
昔、偶にジョン・レノンに似ていると言われたことがあって、へえそんなもんですかね、と思ったが、去年マニラに行った際DPWHの女性職員もそんなことを言っていた。人に与える印象って分からないものだ。そんなにキンキンしたしゃべりなのだろうか。普段はアメリカ英語だけど、シャレで威圧するときはイギリス英語を少し混ぜる。意地悪だね。
NGOのお兄ちゃんから中古のベンツを日本から輸入したいけど適当なものを紹介してくれととんでもないことを依頼された。また、政府の有力者にドネイションする算段らしい。
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