はるか昔から不思議に思うのは、多くの日本人が高校時代の受験英語の呪縛から逃れられないということである(注:受験英語でも昔日比谷高校全盛のころ使っていた英文法の教科書は最高の英語教科書で一般の受験英語的なものとは比べ物にならないほど本物の英語でネイティブの教養を凌ぐものだった)。
大学受験まではしょうがないが、大学に入って大量の文献を読んだり、社会に出てネイティブや準ネイティブと協議したり、英語で論文や報告書を書いたりすれば、自ずと実務での受験英語の無力さは気づく筈なのだが。目からうろこ的な経験はなかったのだろうか。 或いはいい師匠がいなかったか。
相変わらず、言葉を1対1写像的に無邪気に変換しているのを良く見かける。或いは英語の内容に矛盾があるので和訳できない、或いはその逆を議論する。矛盾のある文章を矛盾のあるままで他の言語で表現すれば済むことなのである。 これが難しいらしい。
自分の場合は、英語と日本語の論理(或いは非論理すなわち感情的な)演算プロセスは別の脳の部分のような気がする。人格すら変わるのであるから。
人は他人の不備をあからさまに批判したり非難することは少ない。しかし、だからと言って不備や不手際を見逃してはいないようだ。だれも否定していないから問題ないと考えるようでは海外でIWRM論議など出来るわけがない。なんとなく会話しているから英語力があると錯覚している方が多い。 IWRMは人の心に訴えなければ成功はしない。そのツールの英語力に問題ありなのである。
日本人を交えてネイティブと協議したり雑談することがあるが、時々ネイティブとウィンクして無言の了解をすることがある。おかしな発想に霹靂する時の暗号だ。フィリピン人やインドネシア人でもするので彼らも茶目っ気がある。この茶目っ気はある意味余裕のしるしだ。中東人などは激しい激論が好きだが悪意などさらさらない。海外での IWRM計画への関与はカウンセリングに近いと思うがいかがであろうか。言葉は人の心に響かなければ意味がない。
フィリピン人はあの通り発音はかなり問題だが聞く耳はある。だから英米人の会話は問題なく理解する。だからと言って彼らにはそれを真似ることはしないのである。日本では何が正しい英語なのかも分かっていないことが多い。
新聞・本が読めて、映画やテレビ・ラジオで感動し、CNNやBBCが分かり、洒落た歌でも歌えればもうそれで英語力はあるのである。話したり書くのは、聞けて読めなければ成立しない。さらに、 女性を口説ければもう合格点だし、コンフリクトリスク管理のファシリテートや交渉・調停もいよいよ照準に入ってくる。
おかしな英語談義はもう止めてくれと言いたいがまだ止まらないようだ。
直訳は止めて、改めて全体を英語や日本語で表現してみようではないか。
Thunderbirds are go!
Go for broke.
こんなごくありふれた表現でも文法的に和訳しようとするととんでもないことになるのだ。言葉は文化なのである。それと、海外の海千山千の人たち(誰とは言わないが)との交渉は無邪気では困るのである。それが本音だ。海外プロジェクトは戦争だといつも考えている。
Who dares wins!
0 件のコメント:
コメントを投稿