ちょっと代わりにヴェトナムからのお客さんの食事会に行ってくれない?と言われて銀座のJV相手の本社に行って、その日から家に数日帰れなくなった。
ヴェトナムで初めて開始される水力発電の関係者の歓迎会だった。当時の上司は酷いもので、自分がアテンドするのが面倒くさかったせいか、実際のアテンド行程を言わずにいた。
食事会に行くとJV会社からこれから宜しくアテンドお願いしますと言われ、食事後直ぐ地方の現場に同行してくださいとのことだった。ビックリして本社に電話すると、宜しくね、だった。ひどい話だ。実際、このころから会社の雰囲気がおかしくなっていた。
まあ、海外からのお客様をアテンドすることは好きなのでそれ自体はいいのだが、上司の無責任さには呆れた。
それが丁度15年前の3月だった。研修生はなぜか北千住の研修所みたいな施設に宿泊していた。サリン事件当日は日比谷線で銀座に向かう予定だったが、彼らの宿舎まで行って銀座まで同行した。多分1時間ほどの違いで難を逃れたと記憶している。
ゼネコンの現場、電力会社の現場、既存ダム発電所の見学など3か所ぐらい回ったし、当時のJBIC本店にも表敬したと思う。
現場での宿では初めてヴェトナム人と交流し、ウィスキーのまわし飲みを経験した。水文の教科書はソ連時代のクリッキー・メンケル共著の本がヴェトナム語に訳されて使っているとも聞いた。
その後、日本の支援でもう一つ水力発電プロジェクトが建設されたが、それで日本の支援は終わったようだ。04年にはD/Dを無償で支援して、それ以降のS/Dはヴェトナム側で進めることになった。彼らの成長は早い。10年で卒業した。07年にはADBのT/A案件に団長として応札したが、残念ながらJVのドイツのコンサルの不手際で失注した。取れてたら今のような幸せなコンサル人生はなかったかもしれない。
ヴェトナムの水力案件に係ることはもうないんでしょうね。
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