今日あたりは流星群が見られるとのことで後の楽しみにしている。兎に角、ここの星はきれいだ。南十字星。天の川。見事だ。
さて、今回で360回。途中ちょっときわどい内容だったので後で削除したのもたくさんある。やっと360度で一回りである。
身内のことを書くのは気が引けるが、やはり自分という人間が存在し今生きているのも両親やご先祖様のお陰だ。叔父さん叔母さんたちからも人生の指針をたくさん頂いている。
親父は昭和3年生まれ、お袋は昭和5年生まれ。もう81歳と79歳だ。随分迷惑もかけたが、親子の付き合いも長い。物心がついて50年か。
親父にも自叙伝を纏めてみたらと勧めているがどうしているか。逆にこのブログは時どきプリントアウトして妻が実家に遊びに行くときに渡している。へえ、海外でこんな活動してるのと読んでくれているらしい。時々会っても中々実態は伝わらないから丁度いいかもしれない。
親父は旧制中学を関西で過ごしている。終戦直前は浜松だったか高射砲部隊にいたらしい。その後、埼玉県庁に入り、ずっと土地改良事業に係ってきた「つわもの」だ。直営事業から係っている。小生が物心つくころには自治労の組合活動に専従していた。60年安保の時のメーデーには浦和あたりまで連れて行ってもらった記憶がある。結局メーデーの後は仲間の家で麻雀が始まり家には戻らなかった。お袋が大変心配したらしい。6歳であったがその家のドアに入ったことを鮮明に覚えてる。
その後も自治労の専従だったが、小生が小学校3年生の時に祖父が亡くなり、目からうろこなのだろうか、親父も組合活動を辞め仕事に専念したらしい。それ以降は時どき釣りに連れて行ってもらった思い出があるぐらいか。自分も中学以来自分の世界に没頭していて、親父との仲良し関係はあんまりない。男同士だし。
大体、当時は飲み会(と言っても大概は業者の接待だが)も多く親父も夜遅く帰ってきた。必ず料亭でのお土産があり、特上寿司か鰻のかば焼きとてんぷらが定番だった。貧しくはなかったが当時の食生活では考えられないもので、それ以来お寿司とかば焼きに関しては上物しか食べられない。子供の時の食感というものは恐ろしい。
さて、彼も高度成長の中で埼玉県の土地改良事業については企画、調査、計画から設計、工事監理までこなしている。大体日曜日になると土地改良区の幹部とか建設会社の幹部が自宅にまで来て何やら話しているのが常だった。そういう時代だった。接待や贈り物は当たり前の時代だ。
ただ、現金だけは受け取らなかった。律義な性格だし、それをやったら汚職で捕まっていただろう。
県を退職したのが1987年ごろか。その後は測量会社の社長やったりしてたらしい。らしい、というのも87年ごろに一度大喧嘩してそれ以来13年実家に行っても口をきかなかったからだ。大したことでもなかったが、お互い頑固だし譲れなかったんだろう。典型的な埼玉県人でもあり、無口ではないが、口が悪いのが特徴だ。まあ裏表はないので信頼できるところがいい。
2000年ころに親父が胃がんの診断を受け入院・手術。その時にこのまま和解しなかったら後悔すると思い、自分の方から病院に行き、13年ぶりに話すことができた。
それ以来、親父も元気になり、あれから9年になるか。実家には住んでいないが、海外から戻ると遊びに行って夜遅くまで晩酌に付き合い、彼の過去の逸話など聞いている。
農業土木屋として戦後40年以上やってきていてやり尽くしたという達成感を持っている。あんまり給料は良くなかったが満足のいく仕事をやってきたんだろうねと思う。バブルが弾ける前に退職しているのでラッキーだったが、年金は貰いすぎかもしれない。
自分は公務員やゼネコンに行くつもりは更々なかったが、仕事に対する情熱だけは伝授されているだろう。彼もあんまり海外でのコンサルタント活動については良く知らないだろうが、海外から戻って報告すると喜んで迎えてくれるのはありがたい。
今思えば、生活面、成績のこととか、学校や職業の選択とかについては小うるさいこともなく、じっと見守ってくれたことは有難いことと今でも感謝している。思いと行動は別物であったのだ。
彼も公務員だったから、小生が会社を変えたりすることには手放しで大賛成ではなかったが、今ではこの道に進んだことを理解してくれている。
親父もお袋ももう80歳前後。まだまだ元気で頭もはっきりしている。今後のことは神様任せだが、どうなりますか。
9月末には帰国するのでまた久々晩酌にお付き合いしよう。ただし、3時間が限界で、それ以上経つとけんか腰になるので注意しよう。悪い性格というものは年を取るごとに際だってしまうらから。
彼の名言は、
残るも地獄、去るも地獄、それだったら去って新たなチャンスを探した方がいいよ。
それで、今の生き方にたどり着いた。「苦行から成道」への道はまだ遠いが。。。
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