2010年9月6日月曜日

771:ゼネコンの勇者死す

最大手ゼネコンで海外事業に長らく携わってきた「赤堀篤良」氏が8月初めに死去された。

これ以降は仕事が終わってから記述する。

赤堀さんとの出会いは、彼が大手ゼネコンを58歳で退職され、ダムの工事監理をコンサル側で始めるようになってからだ。イランのダム工事である。前任者がクライアントから報酬がでないため苦境になり、代役として赴任されていた。海外副本部長で帰国したが、やはり技術営業的な仕事には嫌気がさして早期退職したのかもしれない。彼の大学土木工学科で2年後輩に小生の従弟がいるが、彼は最大手を嫌って準大手に入り役員になってからはずっと営業担当重役だったことを考えると土木屋の生き方には2通りあるらしい。

赤堀さんに初めて会った印象は「サムライ」。すこぶる健康で毎日ダム・スピルウェーの上がり下がりを徒歩で往復していた。コンサルなら当然車で巡回する程度だ。英語の実力は土木屋としてはかなりうまく、海外での百戦錬磨ぶりを証明している。人格者であり、寡黙でもあった。当然、工事監理はゼネコンでの長年の経験を活かし、クライアントからも信頼されていた。

会ったころには既に帰国することになっていたが、その段階でトラブル発生。彼が所長の意に反し暴走して独自の報告書を出してしまった。険悪な空気が流れたが、結局借り上げ者としてはお咎めはなかった。それからは他社のコンサルの請負を数か所の案件で参加していた。通称赤堀レポートも彼から見せてもらったが取り立てて問題になるような内容ではなかったが、所長らとはずっと険悪だったから快く受け止められなかったのだろう。彼も気の短いところがあって、ある時新宿の居酒屋で待ち合わせしたが、近くに同じチェーン店が2軒あり、それに気づき電話したらもう諦めて電車で帰宅してしまったというエピソードがある。

FIDICに対する造詣もかなり深く、ゼネコン側の方としてもコンサルを上回る理解度があったと記憶している。

彼の勇者ぶりは間接的に聞いている。彼と飲む機会はかなりあったが、仕事のことはあまり語らなかった。言えないことも多々あったはずだ。タンザニアでの赴任は長く、ヨットやセスナ機の運転もされていたという。まさに帝国を築いていた。上記の所長はこういう事実をネガティブにとらえてこき下ろしてした。絶対に相手を否定し自己を正当化する所長では赤堀さんとは合わないだろう。外国人との交流もずっと続くほど国際人としての素養があった。

最後の現場はインドネシアの砂防案件だったと思う。そこで不調を訴え帰国して末期すい臓がんだと知らされた。もう1年も前の話になる。

彼は、「真相 赤堀篤良」というサイトを管理し、退職後に纏めた書籍や投稿が載っている。闘病生活の記録も彼らしく克明に書かれ、治療法など詳細な報告になっている。

5月末に梅雨を逃れ、北大の緩和ケーアー病棟に入られ、その後はブログの更新もなかった。

知り合いのコンサルから、今日赤堀さんが8月の初めに死去されたことをメールで知った。享年は70歳であった。

サムライ赤堀氏のご冥福を祈る。

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