2009年6月22日月曜日

255:越境という新世界

越境というと国境紛争とか国際河川に対するイメージが強いが、小生にとっては中学校が「越境」であった。現在でもあるのか知らないが、40年前は一部の教育ママにとっては重大だった。越境入学と言った。多分田舎でもあったことであろう。流石に県は越境しなかったと思うが。

東京及び首都圏では中学教育が荒廃し始め、私立中学も極端に少なかった。逆に千代田区は住民が減っていて既存中学5校の定員は下降気味。win-winではないが、そうした背景から千代田区5校への都内及び近隣県からの越境入学が可能となった。
麹町、九段、一ツ橋、今川、練成の5中学である。麹町及び九段は今でも存在するが、他の3校は廃校となり1つの中学に統合されている。九段は中高一貫校になったとも聞いた。

当時、東京都以外からの越境者は広く分布していて、埼玉県では浦和、越谷あたり、千葉では船橋、柏、茨城では取手、神奈川では横浜あたりまで広がっていた。番町小、麹町中、日比谷高、東大といった公立での東大への道がポピュラーだった時代だ。

東京オリンピック以降から教育に対するミドルクラスの関心が高くなったが、私立に行かせるほどの年収は無い層には越境入学はお手頃だったのだろう。

そうした風潮は親戚の従弟にまでおよび、足立区から通い始めていた。小生は埼玉の遥か田舎にいたが、両親からの影響なしに自分の判断で越境することにした。片道2時間の通学はかなりのストレスだったが、東京に行くことで世界への道が可能になるのだとおぼろげながら考えていた。失うものもあったが、得るものも大きかった。セロサムだ。

同期にはニュースステーションの古舘君がいるくらいか。当時の優秀な同級の活躍があまり伝わってこない。知らないだけかもしれない。

千代田区5校の先生はさすがに選ばれた先生が多く教育指導も熱心で厳しかった。今から思えば大したことはないが、LL教室の実験校でもあったし、不思議なことに製図も重要視されていた。5校全体での体育会もあり各校の違いも良く観察したものである。麹町はさすがに国家公務員の宿舎が多く、師弟も優秀そうだ。一橋はマンモス中学、九段は女の子のセンスが高い、今川や練成は地味。。。

我々のころは既に美濃部知事の考えで学校群が設定され一時の日比谷高校の勢いも衰え始めていた。くじ引きで学校が選ばれてはおしまいだ。公立から私立へ大きく動いていた。

まだ都電もあって、良く神保町まで本を買いに行ったりしたものだ。2年生のころは学生運動が盛んで明治大学付近は騒然としていたもんである。そこで秋葉原の電気街に行きアマチュア無線の部品を買ったりしていた。

旧制中学的なところもあって、規律は厳しかったが大人としての心構えみたいなものを教わったように思う。学業的には田舎でも変わらないのであろうが、基本的な律するこころが違うかもしれない。コンサルでは田舎出身の方が多いがどうも気が合わない。偏見であろうか。

同窓会も20歳ぐらいまではあったが今はない。なぜか1年生の担任である美術担当の出水先生には82,3年まではお会いしていた。彼の個展を見に行ったのが最後。彼も99年ごろ急死されたと聞く。武蔵野の自然を水彩画で描かれていた。鹿児島の出水市出身。朝から赤ら顔でお酒のにおいをプンプンとされていた豪快な方だった。

今川中学跡地は多目的に利用されていた。先日久々に校舎跡を見たが40年前と変わらずビルの狭間にあり、さすがに校舎はないが当時の雰囲気は残っている。13歳で東京に通うアウェーではあったが、そうしたアウェー体験は今でも変わらない。東武伊勢崎線も今では使わないが、秋葉原から上野、北千住、草加、越谷。。。と沿線は様変わり。今では越境中学生も私立がほとんどだ。

田舎の人は大学で故郷を離れ、さらに就職で実質故郷を捨てざるをえない。さびしさは想像を超えるものであろう。実家の両親の介護なども実質的な問題もあろう。田舎の人のお気持ちもお察しする次第である。

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