2013年5月7日火曜日

1516:水豊ダム完成直前の映像発見

水豊ダムについては以前書いたことがある。秘話だね。

今日、水豊ダム発電所に関するアクセスがあったので、また調べると、昭和18年の完成直前の「日本ニュース」の映像を発見。2年前の映像も別途ある。


ここに、アクセス先を記す。

工事責任者の久保田豊さんの若き日(58歳ぐらいだから今の僕と同じ年だが、貫禄が違いすぎる)のお姿を見ることができる。下記に、映像のアナウンスを記す。


「満洲国皇帝陛下にはこの度、安東地方巡視の御機会をもって、我が朝鮮平安北道の地に御臨。5月5日鴨緑江水豊発電所にならせられ、決戦下、鮮満工業の原動力たる水力発電の実況をつぶさに御視察あらせられました。
日満一体の契り、いよいよ固きを加うるのとき、皇帝陛下このたびの御臨はひとしお意義深きものがあるのであります。
この光栄に輝く、水豊ダムはその工を興してより、既に6年。従業のべ人員3千万、総工費は実に2億4千万円におよぶと言われています。貯水池は琵琶湖の約半分、霞ヶ浦の2倍にあたる水を満々とたたえ、鴨緑江の流れをせき止めて立つその威容は、本年完成の暁は敵米国が誇るボルダーダムもその容量において、はるかにおよばず。近代科学の戦いにおいても、堂々敵国を圧して世界に冠たる技術日本の貫禄を示すに、けだし、十分なものがあるでありましょう。」

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300538_00000&seg_number=002

こういう大ダムを建設する機会はこれからあるのでしょうか?

久保田さんの名言を下記に記す。

社内では文字通り私と生死を共に今日まで来た部下の協力に頭を下げたい。私の一生を通じ、以外にも大きな仕事ができた、またできつつあるということは、私が単に運がよかった、とひとことで言いきれない事柄である。

私は築き上げた会社を奪われ、さらにいろいろな肩書の理由で合計5枚のパージ(公職追放)を受け取ったが、闘志は少しもくじけなかった。そこに、はからずも「捨てる神あれば拾う神あり」である。
【覚書き|太平洋戦争終結により朝鮮にあった会社の権利をすべて失い公職追放を受けた時代、知人伝いで日本工営の設立資金を得た当時を振り返っての発言】

私は考える前に行動する性格で、そこが袋小路であったら戻ってきてやり直す。出たとこ勝負でことを運び続ける人間だ。

私は仕事にスピードを重んじる。

私も請負工事費をギリギリの線で押さえるので、業者からよく泣きつかれたことがある。しかし私は応じないことにしている。それはたとえ、金額を上げても、その分だけゆったりした気分となり、余計な金がかかるからである。「ギリギリの予算だ」というところで、請負業者も「損をするまい」と必死になるのだ。工事費を上げるのは、すべて終わってからのことである。これが私の行き方である。

私は、工事のスピードと工事費の節約、正確さを念頭に置いた。工夫を昼夜交代制に分けて仕事を進めたり、土砂捨て場に部落の湿地を選んで、その埋め立ての代わりに部落から人夫を提供してもらったりした。工事費を少なく、しかも地元民からは喜ばれる一石二鳥の策としてやった。

私はいつも陣頭に立って働いた。あるとき降雨が続いて洪水が起こった。内務省は河川の改修をやっているのだから、洪水を防ぐ責任はない。責任は県にあるわけだ。しかし県の役人は誰もこの対策を講じない。それを見かねて私はこれを買ってでた。二日二晩、不眠不休でとにかくこれを食い止め、地元民から大変喜ばれた。

私は病気には負けなかった。私は胸(肺)をやられた人によく言う、「絶対病気に負けてはならぬ。気力で治せる。ただその代わり、医者の言うことはよく聞け」と。私は3カ月で退院した。病気をねじ伏せたのだ。
【覚書き|肺病で倒れたときを振り返っての発言】

いまさらながら過去のことを記すのはあまり気が進まない。私にはまだまだこれからすることがたくさんあるからである。
【覚書き|76歳のときの発言】

細かいことで私欲を出したり、無理に人を押しのけたりすることは感心できません。たまに赤字覚悟、損得勘定抜きの場合があってもいい。その方が相手側の信頼を得て、結局はプラスになって返ってきます。





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