2014年5月16日金曜日

2276:久々の本の要旨

田中角栄『私の履歴書』の要旨

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・私は大正14年に、二田尋常高等小学校に入学した。
学校の講堂には、草間校長の手になる校訓が掲げてあった。
「至誠の人、真の勇者」(知恵と勇気がコンサルには重要だね。)


・私は、ひとにカネを貸してくれと頼まれたとき、できないと思ったらキッパリと断る。
貸すときは、返ってこなくてもよいという気持ちで一言も言わずに貸す。(同意。僕もそう。貸さないでお金はあげる。ただし、少額だけどね。)


・昭和8年に高等小学校を卒業した私は、
4、5、6の3ヶ月間、うちで中学講義録を読みながら、
「さて、これから何をしてやろうか」と考えていた。
県が救農土木工事を始めていたので、トロッコで土や石を運ぶ仕事をはじめた。(彼も優秀じゃない。)


・現場には、おもしろいじいさんがいて、私にこんな話をしてくれた。
「土方土方というが、土方はいちばんでかい芸術家だ。土方は地球の彫刻家だ」(だよね、コンサルの工事監理なんて、ものつくりとは言えない。)


・読書は無性に好きだった。
明治大正文学全集、姉たちがとっていた「婦女界」や「キング」、講談雑誌のたぐい。
なんでもござれと耽読した。(意外と知的だったじゃない。)


・暗記教育は古く、くだらないという人があるが、
私は暗記は教育の中でいちばん大切なことの一つだという考えをいまでも信じている。
本を読んで覚えることを、授業を受けて知ることも、
読んだ本が、また教えられた話が暗記できないようではどうにもならない。(御意。)


・物を考える教育、自ら修養する教育も、たしかに立派なことのようだが、
原理や定理、方程式や、またものをはかる尺度なども、
根気よく暗記しないと新しい進歩にも前進にも運用されないのである。(同意。)


・私は昭和33年、郵政大臣として全逓争議の後始末で行政処分をせねばならぬ立場に立ったとき、
心の平静を保ち、公平無私の境地をつくるため小唄春日派に入門した。
私はそのとき入門する以上は江戸小唄集に集録されているものは全部覚えるつもりであった。(なるほどねえ。)


・小唄春日派に入門したとき、
「ひとつの小唄を100回以上うたいこめば、
いつどこで歌ってもまごついたり、間違ったりはしない」
といわれた。(人前で披露するには、100回以上練習しないとね。僕のカラオケもそう。海外で練習して、帰国後披露。今回は行けなかったなあ、銀座と歌舞伎町。)


・やがて建築事務所を19歳で創業した。
理化学研究所との強いつながりで、理研の工場案件を多く手がけた。
理研の工場は朝鮮まで進出していた。
私はその朝鮮の会社を除いて山口県宇部の日満マグネシウム工場の仕事まで、
あらゆる工場の事業計画と工場設置計画に参画させてもらったので、
今でもそれらの工場の中に配置された主要機械の配置まで覚えている。(やっぱ、人的コネがあったんだ。)


・この時代は私の頭脳もはっきりしていたし、知識欲も旺盛であったので、
なんでもが珍しくおもしろく、そして貴重なものであった。(若い時は夢中だし、そうだよね。)


・そのころの私は、いつでもどんな大学へもゆける資力もあり、環境もあったのに、
内職に身が入りすぎたのか、中途半端な学業のまま兵隊に行くようになったことに対して、
何がしかの反省と口惜しさがあった。
しかし、大河内先生のもとで、二度と出来ない貴重な経験とともに、じっくりと、
そして広範な分野にわたり勉強させていただいたことを誇りに思っているし、
このときの勉強が今の私の知識の全部のようにも思えるのである。(大学行くだけじゃ、意味がないのは今も同じかな。)


・大病で除隊後、飯田橋駅近くに、建築の設計、機械基礎の計算、
建築工事の請負などを始めるための事務所を開設した。


・建築設計や工場計画などで理研関係各社との関係が復活しただけでなく、
根岸に大きなアパートを設計施工したり、目の回るような多忙の日が続いた。


・軍隊にいたころ、早稲田大学の建築に関する専門講義録をとっており、
手箱検査のときなど、よくそのことで、殴りつけられたこともあったが、
仕事を始めてみて勉強しておいてよかったとつくづく感ずることが多かった。(すごいよね。知的好奇心が。意外と知られていないわけだね。)

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うちの親父も終戦後直後から、埼玉県庁の農業土木をやっていたけど、同じような備忘録を書いてよ、と頼んでいたが、どうしたかなあ。


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